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ホモ・ステータセンス

第145国会
衆議院 文教委員会 07
質問

1999/04/14


栗本が語る政治の世界

○栗本委員
 ただいま御提案のありました学校教育法等の一部を改正する法律案につきまして、非常に概要的な改正といいますか、その基本的な方向及び哲学の部分、それから運営の具体的な部分について、幾つかわからないところがございますので御質問を申し上げたいと思います。
 申しおくれましたが、自由民主党の栗本慎一郎でございます。
 これは、学校教育法等の一部を改正する法律案でありますけれども、実質的に、国立大学の運営及びあり方にかかわる部分が非常に多く、中心的になっております。といたしますと、今日、政府の進めております行政改革の中で、国立大学をどのようにしていくのか、国立として今後、九十九あるいは百に及ぶ大学をこのまま維持していくのかどうかという点にかかわってまいります。
 この点に関しましては、文部省は、改革の方向が今打ち出されており、それが定着をした段階で明確になる部分があるから、簡単に言えば、それまで待ってくれというふうに言っていると思います。
 とすれば、この改正案は非常に重要な意味を持ちますし、しかるべき重大な、しかも根本的な改革であるというふうに期待されますけれども、はっきり申し上げまして、どういう表現を使ったらいいのでしょうか、手探りであるとか、これだと一体どういうふうに変わるのだろうかとかいうところが、極めて不明確な部分がたくさんあるというふうに考えております。
 それに関しまして順次御質問を申し上げますが、まず、細かいことのようでありますけれども、在学期間の特例として、三年以上四年未満の在学で学部を卒業することを可能にするという改正の方向がございます。
 もちろん賛成でございますが、今の御提案の趣旨にもありましたように、大臣は、これを、すぐれた成績をおさめた学生について、三年でも卒業を認めることができるようにするよと提案をされました。それは在学期間の特例なんだというふうにおっしゃっています。しかし、これがまた哲学ではっきりしない。これは国立大学に限りませんが、私は、大学に在学期間があるということの根本についてここで本当はお示しいただくべきだったのじゃないかと思います。
 私自身は、例えば二年以上在学し、所定の単位を修めた者であれば、すぐれているかどうかにかかわりなく、単位を修得するのは、それは大学の中で、A、B、Cあるいは優、良、可といって、すぐれているかやっとかというふうなのがありますけれども、それは関係がないじゃないですかと、卒業に関しまして。こういったところで、すぐれたとか、三年以上だとか、あるいは特例だとかいうふうなことをおっしゃられるところがよくわからない。それはおかしいのではないですか。
 単位がこれ以上あればよくて、それから常識論として、一年ではいけないが二年以上ならいいとか、あるいは三年だというふうなところも明確にしたところで、つまり大学を卒業する、学士の称号を授与するというのは、こういうところに基づくのだというふうなところがない。何だか、一年ぐらいは短くしてやってもいいじゃないかというふうなお話のように受け取れるし、事実そうだと思うのですが、その辺に関しまして、なぜここを変えるのか、基本哲学をお聞きしたいと思います。
○有馬国務大臣
 三年卒業ということはいろいろ問題があろうかと思います。おっしゃるように、単位を全部取ればいいではないかという考えもございます。しかし、単位を三年間で取れるというのは、やはり優秀な人間だと私は判断をいたしますけれども、その辺のことは別といたしまして、三年以上の在学で卒業を可能にする措置というのは、決して大学の教育を甘くするということではなくて、やはり学生の能力や適性に応じたきちっとした教育を行う、そして、その学習成果を適切に評価するという観点から設けられた、御指摘でございますが、例外的な措置でございます。
 このことを踏まえまして、文部省としましては、三年以上の在学で大学が卒業を認めることができる場合として、文部省令において一定の要件を規定することといたしております。
 その要件とはどういうものかと申し上げますと、まず、大学において厳格な成績評価を行うこと、これが一点。二点目としては、履修科目登録単位数の上限制を導入しております。その上で、学生につきましては、三番目に、三年以上で卒業に必要な単位数を取得し、かつ成績が優秀であると大学が認めた学生であること。四番目に、本人が希望するということを前提として、予定して考えております。
 また、大学における責任ある授業運営や厳格な成績評価が適切に実施されるよう、法律の施行通知や各種会議等において周知徹底を努めるとともに、授業の目標や成績評価基準等を明確にして、大学として広く社会に公表していくよう促してまいりたいと思っております。
 こういうふうにして、各授業で適切な成績評価ができるように、教員の意識改革や教育内容、授業方法の改善が重要であると認識しております。そして、大学における組織的な研究、研修、ファカルティーディベロプメントと言われているものの実施に努めてまいりたいと思っています。
 なお、既に、大学院に三年修了で進めるようになっております。この辺は、かなり成績が優秀だということがございますが、もう一つ、外国の大学は九月から始まりますので、四年の初めの方でもう既に、一般的に言って、アメリカのあるいはヨーロッパの、外国の大学院に入りたいというふうなときに、あと一年余計に待たないでも行けるようにするということもこの中に入っているということを御了承賜れれば幸いでございます。
○栗本委員
 ありがとうございました。
 本来なら、大臣ではなく局長等にお聞きしてもいいような問題でございましたが、大臣は、御承知のとおり、大臣としての御経歴より大学の総長としての御経歴の方が長かったわけでございまして、その点でわざわざお答えいただいて恐縮でございました。この後もしばらくお願い申し上げます。
 しかし、今長々とお答えいただきましたが、すぐれたというところの評価がとてもあいまいであった。在学で単位を取ればすぐれているのか。すぐれていない人間にも、まあしようがないから単位をやるのか。私は、まあしようがないから単位をやるのだってあっていいと思いますし、その中ですぐれた人間はしかるべき評価をされるというふうにしたいということなので、そういうような一種の概念的なものとしてすぐれたとおっしゃったと受け取らせていただきます。
 それで、実は、詰めればとてもお答えもおかしいのです。大学が、カリキュラム上、単位を取れるようにして、履修できるようにしたらば、それを全部取れば可能で、もちろん取らない権利も学生にあるわけですけれども、三年で卒業できるというならば、くどいようですが、すぐれてなくても卒業できるし、そうすべきだと思う。
 そしてまた、これがおかしな点は、今御答弁の中にありましたが、一部私立大学も含めて、大学院に進む場合には、三年で卒業してもいいという話がもう既にできてきている。それはおかしいのですね。大学院に行く人間だけをいい意味で差別をするという格好になっています。
 だから、今度、大学の卒業自身を三年でできるようにするというのは、手探りの、おくればせの、立派な改革とも言えない、本来、継ぎはぎすべきところをしていなかったからするというふうなことなんだというふうに私は受けとめておりますが、そういった中で大学に対して、しかし大学側が、カリキュラム上、三年では卒業できないように、これ以上取ってはいけませんよと言えばできないわけですから、きちんとこれがそのようにできるように御指導を賜りたいと思います。
 なぜこんなことを申し上げるかというと、そういうことは本来大学の自治に属することだとは思いますけれども、ちょっと似たような問題として、博士号という問題があります。日本では昔から、末は博士か大臣かというような、何か大臣と博士がほぼ同じぐらいの権威であるように、そういった俗謡がございますけれども、御承知のとおり、全世界の大学においては、博士号というのは研究者の第一歩とは言わないけれども、第二歩、第三歩ぐらいであって、博士号取得は、博士号を持っているからといって、教授あるいは世界の学会で発表するというふうな資格にはならないというのが本来の、現在のあり方であります。
 だから文部省も、大学院というのは、単位修得して博士号を取るような大学院というのができ上がっているんだということで、しばしば通達を出していられますけれども、つまりそのように、博士号をよく出す、多く出すようにしなさいと。
 大臣の御専門のサイエンス等では、世界の学会との交流が比較的多いので、博士号を持っていなければ話にならない。一般論からいうと、フルプロフェッサー、正教授と名前のつく、称号のつく人間の方がはるかに世界的には格が高くて、それはもう聞くまでもなく、博士号を持っているんですよねという扱いになっているわけですが、サイエンスの部門、理系の部門ではそうなっている。博士号をお持ちでない方は、特別に取れないのか、特別に嫌なのか、どっちかだということになっている。
 ところが、文科系の方では、文部省が再三、そういう通達指導をしているにもかかわらず、社会的な認知、大学界における認知といいますか、まだ相変わらず博士というのは偉いものだ、教授より偉いんだというのでおかしなことが起きております。私は、それはどんどん取るようにさせるべきだと思っているわけですけれども。
 私は法学部の教授でありましたが、法学部では特にそういう古臭い考えがあるようでありまして、フルプロフェッサーであっても、例えば東大の法学部、多分正教授の半分ぐらいの方しか博士号を持っていないと思います。少ない方が偉ければ、博士の方が偉いということになるわけですね。文部省はそのように、一応取るようにというふうに、つまり、世界的に通用しないからということなんだけれども、大学側は取らない。
 少し長くなって恐縮でありましたけれども、まとめます。実際起きておりますことは、私は私立大学の法学部の教授でありますけれども、博士号を持たないにもかかわらず、博士号を与える審査をするとか博士課程の指導をしているということになる。本来ならば、専門学術書と言われるような本を、研究成果を発表できる教授は当然博士であるべきだ、世界はそう思っているけれども、なかなかしない。ですから任せておきますと、この三年卒業もなかなか進まない。だから、踏み込んでそのように指導をしていただきたい。一言お答えを賜りたいと思います。
○有馬国務大臣
 私も栗本先生に全くの同感でございます。
 しかし、随分いろいろ工夫をしてまいりました。例えば平成三年には、学位授与の円滑化のため、博士などの学位の種類を廃止するなどの措置を講じたところです。その結果どうなったか。この世の中に余り知られておりませんが、博士(法学)、博士(文学)というふうなことをできるようにいたしました。
 そういう努力にもかかわらず、御説のとおり、その後の博士の学位の授与状況を見ますと、自然科学系では相当活発に行われるようになっております。しかしながら、依然として、アメリカやヨーロッパの博士号の数と日本の大学を出た博士号の数の比較をいたしますと、残念ながら日本は理科系でも弱い。文科系に至りますと、十分の一どころか三十分の一以上の少なさですね。そういう意味で、人文・社会科学系の分野では、近年徐々に改善はされてきておりますが、依然低調であるということは御指摘のとおりでございます。この点、私も非常に心配をして、かつて委員であったころでありますが、大学審議会等々でも常に発言をしている次第でございます。
 どうしてそうなるかということを考えてみますと、人文・社会系を中心に、課程制大学院及びそれに基づく学位制度の考え方がまだ十分理解されていない。先生御指摘のように、これはドライバースライセンスであるというふうな考えを私ども理系の人間は持っておりますけれども、そういうことがなくて、依然として大博士という考え方があるように思います。結果といたしまして、標準修業年限間に学位を取得できない状況が大学院の学生の学習意欲を損なうという結果にもつながっているという御指摘もありますし、社会がまだ人文・社会系の博士に対して要求度が低いという問題もあるかと思います。しかし、これは各大学で努力することであります。
 東大の場合、私がおりましたときのことを思い出してみますと、平成元年、私が東大の学長になりましたときにはまだ二人しかおりませんでした。二年、三年のころ、人文系の博士が二人しかいなくて、その後もゼロ、ゼロという年が続きましたけれども、四年ごろから、私は、やはり大学院の責任であるから、特に留学生などに対してはきちっと博士を出してほしいというふうなことを要望いたしまして、私が東京大学を去る直前ぐらいから急速にふえてまいりました。平成四年で十五人、平成九年には三十人まで課程博士の博士(文学)というふうなものが出るようになりました。これは各大学の学長及び学部長等の努力でやるべきことであると思っております。一例といたしまして、東大の場合に、そういう努力の結果、人文系特に文学部系が非常にふえたということを御報告申し上げておきたいと思います。
○栗本委員
 この問題は長くかかわりませんが、実は、踏み込んで言ってしまえば、大学教授でありながら、教科書じゃなく、専門の学術書を書いていない人は、みんなが取るようになると、その人は取れない、だから取らせたくない。大博士なんということを実は信じているわけじゃないんだけれども、そう言っておいて、ほかの人も取らなければ、自分が不勉強だ、研究もしていないのがばれなくて済むということが実態なんです。私はそう思っています。これは、大学内部の保守性がそういうことになっている。それで、大博士論なんて考えていないわけですね。
 ですから、この三年以上四年未満の在学云々の話も、そのように大学自体の保守性の中から、ちっとも運営されていかない、実行されないということがあり得ると思いますので、踏み込んで御指導を賜りたい。これは大学の自己評価にもつながる。博士号なんか取らせてしまえばいいわけです。専門学術書の一つもない人が教授をやっていること自身が本当はおかしいのですから。
 今うなずいておられますけれども、教育に熱心であれば教授にしてもいいという道も開いておりますので、それは一言で言い切れないんだけれども、でも、博士号をお持ちでない教授は、そういう意味であってもいいということですね。その大学自身の保守性の中でこういったものが実際に運用されない、実行されないということがあり得ると思いますので、ぜひとも踏み込んで御指導を賜りたいと思います。
 問題がたくさんありますので、次へ移ります。
 この改正の中で、大学の研究科、「大学院の研究科の位置づけを明確にするとともに」、こうおっしゃっておりますが、これはもう既に明確じゃないんですね。大学の研究科とも言えるし大学院の研究科とも言える。つまり言葉として、大学というのは大学院を含むのか、その辺も極めてあいまいである。
 実は、学校教育法では、大学というものの中における基本組織とは何なんだというのが明確には書かれてないわけですね。みんな学部だろうというふうに考えています。学部が基本組織だというのは、五十三条に、学部以外の基本組織を云々という条項があるところによると、学部は基本組織らしい、こういうことなんですね。
 では、研究科は、大学院とは一体何なんだ。今度これは基本組織にされるわけですね。ちょっとお時間が少ないので、短くお答えを賜りたいと思います。
○有馬国務大臣
 御指摘のとおりでございまして、現在、大学の本質的な基本組織としては学部がございます。今後とも学部は大学の中心的な組織としての役割は大きいと思います。
 しかし、近年、大学院重点化構想などというものが盛んに行われまして、随分大学院を強化するというふうなところがふえてまいっております。すなわち、近年、大学院を設置する大学の中には学部段階から大学院の段階へ比重を移しているところがある。そういうことで、大学院研究科が大学の構成要素として相当の実態を有するに至っておりますので、そこで今回、学校教育法上の学部のみを大学の基本組織として、教職員の所属、学生の所属、意思決定の基本機関とするだけではなく、大学院研究科を学部と並ぶ組織として位置づける必要が生じてきておる、こういうふうなことで、今回、大学院に研究科を置くというふうにさせていただく次第でございます。
 しかしながら、研究科が基本組織と位置づけられる場合であっても、学部は依然として、学校教育法上設置が常例とされて設置されている限りは、基本組織と位置づけられるものと考えております。そういう点で、学部を重要視していくことは変わりありません。
 それから、大学院大学とは異なり、学部レベルの教育研究を行うことが大学の教育研究の遂行に相当の比重を持つ実態があるというふうなことが考えられます。そういうことを考えますと、学部は、研究科と同様に、大学の教育研究上の基本となる組織であるということは今後も変わらないと思います。
○栗本委員
 短くと申し上げたのですが、いろいろお答えいただいたのですが、要するに、大学院の研究科もあるいは大学院も基本組織であるというふうにお認めになったということだと思います。これは賛成でございますが、しかし、改革の方向として、土台だけですね。では、どういう基本組織なんだ、学部と大学院と両方ある大学、例えば東京大学の中でそれはどういう位置関係にあるんだというのは極めて不明確です。言葉はきついですが、少しいいかげんであります。
 例えば東大の例をとりましょうか。東大も京大もそうなんですが、私は、東大の法学部の大学院は弱いと考えている。これは別の問題で恐縮ですが、少なくとも大学院研究科レベルの東京大学法学部になっているとはちょっと考えられない。九割九分、文部省や大蔵省にエリート官僚を送り出すためとは言いませんけれども、学部教育が東大の非常に重要なもののように社会的に思われているし、そういう機能の中で働いている。けれども、教授は全部大学院教授となってしまっている。大学院教授が学部もやっている。それはおかしいじゃないですかと。それだけどんどんばかっと進行して、はっと見ると、どこの大学と言いませんけれども、東大じゃない大学の、国立大学の先生は大学教授で、東大だ、京大だ、あとどこをつけ加えても構いません、希望に応じてどこでもつけ加えますけれども、そこは大学院教授がいる。おかしい。
 つまり、大学院教授の方が偉くて、大学院教授の所属にさせられる立派な、立派かどうか知りません、立派かどうかは私、別個のところで本を書いておりますから。立派と思われる大学が大学院教授と、そこだけ進行しちゃっているのはおかしいと私は思います。これは、学長でいられたので責任もあると思いますけれども、お答えを要求いたしません、時間もございませんので。
 そういうふうに、実態的にはそのように進行して、大学院も基本組織、学部も基本組織であるにもかかわらず、大学院にだけみんながいて、それが学部もやっている。そういうことはほとんどの方は、社会の人は知らないと思います。それはおかしいじゃないかということだけ伝えておきます。だからなっていないですよと。そして、この位置づけを今後もっと明確にしていかないと、これで独立行政法人化を押しとどめる前の改革だというのは、ちょっと余りにもおこがましい。この方向はいいけれども、漠とし過ぎているということを申し上げておきたいと思います。多々問題がありますので次へ移らせていただきます。
 国立大学に運営諮問会議を設置されるということであります。これも賛成でありますけれども、この運営諮問会議というのは、例えば学部の教授会とのかかわりにおいては一体何なんだと。学部の教授会についてもいろいろ書かれております。どうも概要を把握するに、学部教授会は、学部にかかわることの範囲内でいろいろ検討し、決定をなさいよと。だから、単科大学というのは学部が一個しかないので、それ以外の場合には、大学全体のことに関しては、学長が最高責任者ではあるんだけれども、大学の自己評価まで含めて大学運営にかかわる重要事項は運営諮問会議で、学長の諮問に応じて、だから諮問会議なんですが、学長に対して助言または勧告をするということなんですが、もとへ戻りまして、運営諮問会議と学部教授会とのかかわりについてお答えを賜りたい。これは本当は局長でもいいんですけれども、大臣が非常に専門家であったので、どちらでも結構でございます。
○有馬国務大臣
 私からお返事を申し上げた上で、足りないところを局長よりお返事申し上げたいと思います。
 現在、大学というものが、国公私立全部を通じて、社会との接点が非常に強くなってきたと思います。大学と社会との関係をさらに密接化するということが大切だと思っております。特に、教育研究活動を一方で自律的に運営していかなきゃならない、そして、特に公財政を投入するというような、これは国公私立を通じてでございますけれども、特に国立に対して公財政の投入の必要性ということを考えますと、社会的に十分御理解を賜ることが必要であると思います。
 そういう点で、大学が社会からの意見を聴取し、社会的存在としてその責任を明らかにすることが求められていると考えられます。その上で、大学の将来計画、自己評価、そのほか大学運営の重要事項につきまして、外部有識者の意見を聞くために、組織といたしまして、今御質問の運営諮問会議を設置しようということでございます。
 私自身、筑波大学の参与会に属しておりました。この参与会も学長の諮問に応じてさまざまな意見を言ったわけであります。大学関係として私が参画いたしておりましたし、産業界その他から大勢の人が入っていて、筑波大学のさまざまな、将来計画であるとか自己評価であるとか大学運営に関する重要事項というようなことを諮問されまして、いろいろ意見を申し上げた次第であります。
 私は、こういうことは少なくとも筑波大学にとって大変役に立っていると考えております。したがいまして、同じような組織が各大学に置かれるということはいいことではないかと考えている次第でございます。
○佐々木政府委員
 運営諮問会議は、外部有識者の意見を聞くための会議でございます。その会議の審議の状況、あるいは必要に応じた助言、勧告などを踏まえて各大学がどのように対応するかは、それぞれの大学の自主的な判断にゆだねられておるわけでございます。
 したがいまして、それを受けた学長が、例えば教授会に、こんなことが提案されましたよ、あるいはこんなことが問題となりましたよというようなことを学部長などを通じてお知らせをするというようなこともございます。それを受けて教授会において教育研究上の諸課題について議論が行われるというようなことなどを通して、大学全体の教育研究が進展することを期待しておるところでございます。
○栗本委員
 大臣の御答弁で、まことに申しわけございませんが、学部教授会とのかかわりについては明確なお答えはなかったと思うんですが。
○有馬国務大臣
 失礼しました。そこは明確に申し上げるべきでした。
 社会において、どういうふうに大学において教育をしてほしいかというようなことは、やはり学部では、例えば工学部の場合にもなかなかわからないことがあります、工学部だけじゃなくてほかの学部でもそうです。法学もそうですね。そういうときに、外部の方の御意見をお聞きすることによって、こういう方に今社会が動いているんだというようなことがはっきりとわかることがあります。
 したがいまして、今御指摘の点でありますが、学部教授会としてもそういうふうな意見が聞かれるように、これはもう既にやっております。しかし、大学としての全般的なものを伺うのが今回つくられる機関でございます。ですが、学部はそれぞれかなりもう努力をしております。このことについて御報告いたしたいと思います。
○栗本委員
 お聞きして何の異論もないんですけれども、まとめますと、今のお答えだけを聞いていると、あってもなくてもいいもののようにしか受け取れないと思うんですね。
 私は、自由民主党の衆議院議員のうち、三人か四人か、あるいは少なくとも片手以内になりますか、議員になる前、大学に職を置いた者であります、ほかにも何人かおられますが。大多数の方は、そうじゃない方々は、こんなものが何の改革になるんだと。
 今の局長の答弁で、意見を聞いたけれども、それを別に、聞いただけだよとしてもいいということなんですよね。意見は聞いてもらいたいですよ。筑波の場合は、有馬大臣だけじゃなく慶応の鳥居塾長等もおられて、特に国立大学が私学のそうした方を参与として聞いたりするのは意味があると思いますが、でも、聞いたけれども別に、聞きましたというものを仰々しく設置することが何の改革になるのかわからない。
 だけれども、恐らく、現実には、各大学におきまして、大学の自治もそうですが、学部の自治あるいは教授会の自治という言葉のもとに、あらゆる改革がどこの学部にもかかわります。そうすると、例えばうちについてだけは絶対だめだよ、もう古いこのままでいくんだよと言うと、大学全体の改革ができない。あるいは、ある学部を独立王国にしてしまって、離れ小島のようにしてほかのところは変えるということはできるけれども。
 そういったことが多々起きてきたために、そういった学部がすべて頑迷だとかいうことを申し上げるつもりはありませんけれども、もう少しその人たちにも意見を聞いてもらいたいというための恐らく手だてなんだろうなと。そこまで実情に踏み込んで理解がある人じゃない限り、こんなものは改革になるとは思えない。非常に隔靴掻痒であるというふうに思ってくると思うんですが、これは御意見があればちょっとお伺いをいたしますが、なければ次へ。――何かございますか。
○有馬国務大臣
 私は、大学紛争などを経験し、それから、今日のように急激な社会変革が行われるときに、特に国立大学であれば、国税を払ってくださる国民の方々の御意見をやはりより広く聞く、そして、しかもそれは単に諮問だけではなく、その中で実行の可能性のあるものは実行していくべきであると思います。そういう意味で、この諮問会議というものが設置されますことは、大学にとって非常にいいことだと私は思っております。
○栗本委員
 いいことだと私も思いますが、わざわざこれで改革になりますよと言うほどいいことじゃないというふうに思います。実態と実権と、それから税金もいささかなりとも使うわけでしょうから、もっと明確に、もっと責任のあるものにしていただきたい。
 また、こういうものができても、どうせうちの学部だけ反対すればもう進まなくて済むんだよというふうに思っている大学教授も実際かなり多いと思います。そうじゃないんだ、この中でこう決めていくんだというふうにしていただかないと、賛成なんですけれども、これじゃもっと賛成できないなというか、これでもう幾らか税金はふえるんでしょうけれども、むだだなというような、だから、賛成であり反対であり、反対であり賛成であるということを申し上げて、こんなものでいいんですかと。そういう意味では反対ですかねと申し上げて、次へ移りたいと思います。
 同じことが実は評議会についても言える。与えられている機能は若干違いますけれども、もっと責任と権限と、予算も本当はつけてやらなきゃいけませんよ。将来的にもっと、この程度のもので改革だというふうに思わないようにぜひお願いをしたい。
 それから、指導上は、積極的に国立大学に私学の関係者を入れることを努力させていただくように御指導賜りたいし、また、一応法律上は、東大の教授が京大の運営諮問会議に加わることも可能なんですよね。恐らく、どうも実態的にはそんなことは起きそうもないんですが、どんどん相互乗り入れをするように。
 また官僚、特に国立大学、大臣の御出身の東大は官僚を多数輩出されますから、彼らはユーザーであります。経済学にせよ、ユーザーがちゃんと、経済学をほとんど学ばずに日本の財政を取り仕切っているというケースが非常に多いわけですけれども、まあ、そのころは東大の経済学部は極めて実質的にマルクス経済学中心であったということもあるんでしょう。また、財政学というのは法学部から分離していった、そういういろいろないきさつなんかもあるんでしょうけれども、やはり世界から見るとそれはとても異常なことですよね。東大法学部は法務省の官僚だけを出しているならよくわかるんだけれども、そうじゃないというのがよくわからない。ですから、官僚の方々も入れるよう、つまりもっと広く、もっとというのは、法律上はできるんですけれども、実質広くできるように御指導をお願いしたいと申し上げて、次に移ります。
 今申し上げたことの中に教授会とのかかわりがありました。改めてお聞きいたしますけれども、教授会は、附置研究所にも設置されるし、独立研究科にも設置されるし、もちろん学部にあるということなんですが、これは、学生の入学、卒業、学位授与、その他学部等の教育または研究に関する重要事項を審議するということなんですが、その最終決定権といったようなものについて、例えば学生の入学、卒業というのは、この読み方によっては、学部が単独で決定するんだ、できるんだ。例えば東大法学部に入れる場合には、医学部の教授が、あれはおかしいじゃないかとか、もう大学へ入ったころから汚職しそうな顔をしているぞというふうなことを言って、だめだと言ってもこれは通すと。当然のように思われているが、私はそうじゃないと思うんですね。
 現実に私立大学においては、学部教授会の議は最終的に経るんですけれども、プロセスにおいては、大学全体の入学、アドミッションコミッティーのようなものをつくって、しばしばそこでは学長ないし総長と呼ばれる人が実質仕切っていることが多いんです。そして学部が、一応最後は学部教授会がオーケーするというか議を経るけれども、まあ現実に、実はおわかりだと思いますが、大学の入学というのは点数をどこで切るかという話でありまして、有馬というやつがいるけれども、これは名前が悪い、こんな話は全然しないわけですね。それから、面接もするわけですから、どうも言っていることがよくなかったというふうなことを言っているけれども、それで落とすという例はほとんどありません。だから点数だけだ。
 では、点数をどこで切るのかという話を一応やるだけなんですが、要するにアドミッションオフィス、アドミッションコミッティー的なところで実際にやっているところはあります。御承知だと思いますが、世界の大学は基本的にすべてそうです。そこに、学長がトップにいる場合もあるし、学長から任命された教授がトップにいる場合もあるし、あるいは大学運営の専門家として事務の方がそのトップにいる場合もある。私はそれが正常だと思うんですね。
 今回のこの改革の中でもその辺がやや不明確なんですが、そういったことができるのかどうか。つまり、学部教授会の自治というものは、日本だけ異常にすごく大きくあるという現状があるんです、尊重されるのはいいことですけれども。その辺を含めまして、お答えをちょっと賜りたいと思います。
○佐々木政府委員
 御指摘ございましたように、学生の入学、卒業、あるいは課程の修了等に関する事項につきましては教授会の審議事項となっておるわけでございます。そして、これらの事項のうち、学生の入学、退学、転学等につきましては、学校教育法施行規則によりまして、教授会の議を経て学長が定めるということとなっておるわけでございます。
 一方、学生の入学、卒業、あるいは課程の修了に関する方針につきましては評議会の審議事項となっておるわけでございます。したがいまして、その学生の入学、卒業、課程の修了等に関する事項につきましては、全学的な方針を踏まえながら各学部が個別具体の審議を行い、最終的には学長が決定をするということとなっておるわけでございます。
 したがいまして、評議会が定める全学的な方針のもとで教授会の審議が行われ、最終的な決定は学長がするという仕組みの中で適切な運用がなされると考えておるわけでございます。
○栗本委員
 結局よくわからないのでありますけれども、実態を申し上げますと、入学試験の合否は点数だけで行われています。それ以外の、あの学生の顔つきがよくないからということを言い出せば切りはないし、非常に問題があります。卒業は違います。単位がどうこうといっても、あの学生についてはこうだということは教授会で議論するのもいい。入学に関しましては、大学は入学試験のためにだけやるという一部誤解がある程度の社会でありますから、もっとスムーズ、合理的にやれるように御指導を賜りたいと思うんです。
 ごくあっさり言いますと、実質、どうせ点数だけでやっているんであれば、あと若干附置的な問題がある程度であれば、もっと早く合否を発表すべきである。私学も国立もであります。しかも、コンピューターでほとんど採点をするんですが、そうすると早くなり過ぎちゃって、私立大学の場合は入試採点手当というのが出たりいたします。私、それを当てにしてカメラを買ったりいたしましたけれども、そんなものは別に給与の中に組み込んでいただけばいい。
 これは大学の名前を出すと問題がありますが、私のおりました明治大学の場合は、試験があってから十日間かかるわけですよ。採点は本当は翌日できるんだけれども、そうすると採点手当が出なくなるからっといて三日間やるんです。三日目は仕事はもう何にもないんです。しようがないから、そこで学部のいろいろな、ことし一年間、松浪教授はいい人だったとかよくなかったとかいう話をそこでやる。もうばかばかしい。国立大学の場合もそうです。全教授が採点あるいは入試にかかわらなければいけないというふうなのはおかしいじゃないですかということであります。
○有馬国務大臣
 そういう御指摘もあることは重々存じ上げておりますが、しかし、随分面接もやるようになりました。例えば、東大の医学部で、私がいたころから面接をやってくれと随分頼みました。その結果、一割は面接でとるようになりました。今は、多分ことしからだと思いますが、全員面接をやります。ですから、単に筆記試験の点数だけでなくやることになっているということをまず御報告申し上げたいと思います。
 それからもう一つ、御指摘のアドミッションオフィスなどもどんどんつくって、そこにかなり入学試験に関して専門家が集まって、一生懸命一年間、単に一月、二月、三月だけじゃなくて、一年間にわたって常にこの問題を考えるというふうなものもつくるようになりまして、ことしも二、三の大学がそういう方向に動いております。こういう方向を今考えておりますので、御理解賜れれば幸いでございます。
○栗本委員
 基本は全く賛成でありますが、大変手ぬるい、生ぬるい、遅いというふうに残念ながら申し上げざるを得ない。
 入試センターというのについても、反対があるからそうなるんだと思いますが、あたかも大学は入学試験のためにだけ存在しているような一種の権威主義、古い考えがあります。だから、入試センターでやらないで単独でやるべきだと。だけれども、実際、全世界の大学を見て、あらゆる大学のあらゆる学部が単独で入学試験をやっている国なんてない。今は入試センターがありますので、私学も含めて利用して、いい面もある。そこに問題があればその問題を直していくということにすればいいんですが、各学部が全部やっているなんというのは日本だけです。
 そのために、原子炉を動かしている教授もサーキュレーターを動かしている教授も、全部とめまして行かなきゃいけないとか、その間にひよこを面倒見ている教授のひよこが死んだらどうなるんだという問題が常に発生しています。それを私学もまねするから非常に問題がある。だから、入試というのは切り離すというふうなことをむしろしていただきたいし、これも、教授会の自治というのが何かすごくなくちゃいけない、あれもこれも取り込んでおかなきゃいけないという中に入試というのが出てくるからだと私は思っているんですね。
 私のおりました私立大学では、十種類入試がありました、二月、三月。みんな驚くんです。入学試験というのは、高校の卒業生ないし浪人した人の学部入学、昼間の、一部の入学試験だけだと普通思うけれども、法律的には、編入試験も学士入学の試験も、もちろん大学院の試験も全部同じなんですね。十種類全部、教授会でやらなきゃいけない。学部の一部、二部、それから編入の一部、二部、転入、学校内の転入ですね、経済学部から法学部へ来るとか、これも一部、二部があります。大学院もそうです。博士前期課程、修士課程と博士課程あるいは博士後期課程が、これは一部、二部は通常ないわけですけれども、あります。これもさらに細分化しよう、多様なニーズにこたえようというわけですよ。
 入試だって、普通の点だけでやらないで、推薦、それから面接を重視されるんだということで、面接重視といって面接で入れたり落としたりするのならやっていただきたいと思うけれども、何か儀礼的にふえているだけじゃないかというふうに思う。大体、面接で思想信条とか、学問にかかわることはしばしば思想信条にかかわったりするので、それも聞いちゃいけないというふうな……。
 慶応義塾大学で、あなたは福沢諭吉を尊敬していますかと聞いたらいけないということになっているわけです。いけないわけですね、何か政治的なものにかかわるかもしれない、聞いているうちにはかかわってくるかもしれませんから。だから、面接なんて、顔色を見て、お互い当たりさわりのないことを言わなくちゃいけない。実際、苦痛にしかならないようなものなんですが、どうも実態的にあやふやである、こう思いますので、入試というものについて、そういう一種の権威主義というのをぜひ削っていっていただくように。
 ましてや、国立大学で機械にかかわって研究をされている教授なんかは大変だろう。我々は文科系の教授でありましたから、いいや、この一カ月は遊んでということで、後で頑張りましたけれども、やはりまじめにやっていてブランクがありました、その一カ月間。やはり学術書、研究書を読むのと学生の採点をするのと、コンピューターでやればいいのに、コンピューターでやると手当が減るからという話になるわけですから。
 これは別に明治大学の例だけじゃないんですが、全国的に明らかに――入試をしてから三日目ぐらいで発表するのは、現在のところ、大きい大学では帝京大学だけだと考えています。これについても、私は帝京大学の総長と、そのときは私は保守的な立場で、三日目に発表するのはおかしいじゃないか、明治は十日なんだぞ、早めても一週間だぞと言ったらば、それは絶対三日でできると、議論をいたしまして、私が敗れまして、それはそうだということで、今私は帝京大学の客員教授もしておりますけれども。
 それは一つの例なんですが、どうも改革の方向が隔靴掻痒で、御意見があるかと思いますが、また個人的に伺うことにいたしまして、次に移らせていただきます。つまり、運営の柔軟化とかいうのが足りないんじゃないですかというようなことを申し上げていたところであります。
 それから、今回の改正の中には、教育公務員特例法の改正関係のことが入っております。これは、実は社会的には大変重要なことだと思うんですね。また、国立大学という問題にかかわることの重要なものの一つだと思っております。
 今回の改正では、教授会に対して学部長等が意見を述べることができるという恐る恐るの改革が入っているのがみそなのかな。つまり、教授の選任について、教授会の自治であるという考え方が当然あって、学部長なり学長なりが、この人どうですか、教授会がだめだと言ったという場合に採れないというようなことがしばしばある。その結果、これは私立大学でも起きることですけれども、ある学部は、政治的には、政治的あるいは社会的にはといいますか、そこには全然多様な意見がなくて、一定の勢力の物の考え方が、しかもそれが学問にかかわっているとなおさら顕著になるんですが、集まっちゃうというふうなことがあって、それにいわば風穴をあけようという意味だと思うんですが、これは賛成です。賛成ですが、もっと柔軟にしていただきたい。したがって、私立大学は教授の資格をいろいろ変えて実際に運営しています。
 私は今、帝京大学の客員教授だとも申し上げましたが、同時に、東京農業大学の教授という名刺も持っております。教授は教授なんですが、特任教授という種類のものでありまして、つまり教授会に出なくていい、逆に言うと出られない。学部の運営についてこういうふうに変えろという意見を持っていても言えない。あいつはうるさくて言いそうだから外されているわけですが、言えないということになる。それはそれで何種類か教授というものがあるということでいいと思うんですが、国立大学ではまだそういう形に今なっていません。
 そのことよりも、実はこの公務員特例法の中で、今問題になっている具体的なことを、例えば一橋大学の中谷巌教授がソニーの社外重役になるということについて、これはだめだと。これは慶応大学教授なら問題はないんですよね。私は、個人的には当然そうしたことは構わないではないかと。
 ソニーというのは利益を上げる会社であって、そこに加わることはよくない云々と言うけれども、しかし、そうした企業の社会性というものが認知、認定されているからこそ――まだ反対はありますけれども、もし実態把握が正しければ、民間企業である銀行に税金を投入するということが認知される、反対はありますよ、反対はありますけれども、議論されて、国会の多数によって認知されているわけであります。
 しかも、私立大学はよくて国立大学はいけないという話はおかしいのではないか。これについて、そこら辺まで踏み込んでいく気があるのかどうか、御意見をお伺いしたいと思います。
○有馬国務大臣
 私も、大学の教員が社会の中に直接入っていって、そこでさまざまな知識をふやし、どういうことを進めたらいいかなどということの参考にすることは、研究の上でも大いに役に立つし、また、大学での教育の上でも大いに役に立つと思っています。
 ただ、現在、よく御承知のように、教育公務員特例はありますが国家公務員でありまして、営利企業の役員に就職することは、国家公務員法第百三条の規定によって原則として禁止されている。人事院の承認があった場合のみ例外的に認められることになっておりますが、この中谷さんの問題についても、現在、最終的には人事院において判断されるべきものと考えております。私どもも大いに協議をしているところでございます。
 しかし、一方で、本年三月三十日、規制緩和推進三か年計画が閣議決定され、国立大学教官の営利企業の役員兼業については、平成十一年度中を目標に結論を得るべく検討を進めているところでございます。
 文部省といたしましては、産学の連携協力は、先ほど申し上げましたように極めて重要なことと認識しておりますし、教育の上でもその経験が大いに役に立つと思っております。今後も人事院を初め関係省庁と十分協議しながら検討を進めてまいりたいと思っています。
 ただ、私が非常に悩んでいることは、例えば取締役なんかになったときに、その会社に何らかのことがあったとき、その取締役は果たしてどういう責任を持たなきゃならないか、こういう問題がやはりありますので、そういう点で、例えば研究に従事するというふうな、TLO法で許されるようになりましたが、研究に従事する、手伝いに行く、こういうことは大いに進めるべきと思っていますけれども、どこまでこういう責任のある場所に入ることができるかどうか、この辺に関してはさらに検討を進めているところでございます。
○栗本委員
 これで終わりますが、今の問題に関しては、検討をし、十分厳重な資格審査その他状況審査をしていただきたいのですが、多様な教授のあり方が国立大学でも許されるように、そういった方向の中で御検討を賜りたいと思います。どうもありがとうございました。
○小川委員長
次に、栗原裕康君。

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