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栗本流 哲学・生命論
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リハビリテーションにおける心の役割

経済人類学者/東京農業大学教授
栗本慎一郎

   講演においても述べさせていただいたように (というつもりだったが、実際には講演は出来なかった.。これはもともとレジメ)、心は人間の身体における器質的バランスを保つのに、ある意味で最も大きな役割を果たしている。ただし、そこで人間は心自体のバランスを保つことが非常に難しいということが問題となる。
   たとえば、人間の意識において、器質的欠陥が明らかであるのに、心はそれを認めないということが起きる ── これが幻肢または幻影肢である。この場合、器質上はまったく欠損しているところの四肢を、人は存在するものと勝手に想定して歩こうとしたり、物をつかもうとしたりするわけだ。もちろん、それは出来ない。しかし、自分の足なら足がないということを心が納得するには、かなりの精神的プロセスが必要となる。
   だから、心が「感覚をも含めて人の行動あるいは運動をつかさどっている」ということが分かる。手足がなくても、心が納得しない限り、その手足は存在するものとして動かされようとするわけなのだから…。
逆に言えば、われわれが不自由な四肢を動かそうと意思するとき、ただ頭が言葉を用いて指示を出しても、それだけでは不十分であるという事態を発生させるだろう。
   リハビリをしなくてはならない、だからこういう運動をしなくてはならないという風に、言葉で理解しても、身体は十分にそれに反応しないことが起きるはずである。ここで言う言葉というのは、理性的命令とか理性的指示と言い換えてもよい。それは、身体の具体的末梢には届かないものである場合があろう。
   一見、外見的には同じ運動をしていても、こうして「届く」運動と「届かない」運動があることになる。
リハビリテーションを患者に対して医師等が指示するということは、患者は幻肢を持っているわけではない。現実に、治せば使える筋肉や器官を持っているのだ。だから、あとは真の意思をリハビリに取り組む人が持つことがキイになるに決まっている。これは、競技スポーツでこのところとみに重視されてきているメンタル・トレーニングに共通するものがあると理解されてよい。
   今は歩けないが、歩けるようになるはずの人に対しては、まず「歩けること」、そして「歩くべきこと」、それが「自然であること」を自らの脳内にイメージ出来るかどうかは、大きな大きなことになるのではなかろうか。

   科学哲学者マイケル・ポランニーは、「器質的なものが器質たりうるには、それを統合する土台になる統合原理がなくてはならない」と言った。イメージは統合原理を強化するツールなのである。そしてその「イメージ」こそが、生命の「意味」なのであることはまちがいない。

99/12/06一部修正

参考文献
拙著 『意味と生命』 青土社刊 / M・ポラニー 『個人的知識』 はあべすと社刊 
 


■心と身体


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