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真版 半身麻痺からの復活 続章
教授のよだれかけ

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目次

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教授のよだれかけ
「遺作」執筆開始さる
驚く見舞い客
いったん退院、NTT東日本伊豆病院に
半身麻痺、栗本引退か!
生きる気力をくれたおからクッキー

食べ物のダッチワイフ‥おから
梅から桜へ、そして復活へ
飛び込んできた小渕倒るの報‥逆に私は国会へ


教授のよだれかけ

  ほとんどベッドから動けない一週間は、食事と排泄が一大関心事だった。
医科歯科大の病院では、食事は配膳係が運んできてくれる。15階では、実は、患者は食堂に集まって食べるのが原則だったが、私は動けないし、また顔も知られているということで、特別に運んできてもらっていた。時間は、朝7時、昼12時、夕6時である。この食事がかなり苦痛となった。何しろ、動けないのだから、運動不足で腹が減らない。悪いけれど、うまいとは言えない。病院食は、まずいに決まっているという問題ではないように思われた。肉が少ないのはやむをえないとしても、調理する熱量をラクにするためか、みんな一旦水につけて「味を抜いてある」のだ。食べきれないで残すと、かならず「テレビでおいしいものを食べてるからねえ」と言われたが、そうではないぞ。そう言われるのが嫌で、無理して食べていたんだ。

  しかし、そのうち、うまくないと命に関わりそうだということで、特に真面目に取り組んで食べることにした。つまり、噛んでも味がないということで、適当に口に入れて適当に噛んで、飲み下そうとすると、喉に詰まりそうになる。梗塞による麻痺は、食道や胃や、すべての内臓に及んでいるから、いっぺんに食物がひっかかると、よく喉に詰まって死ぬのだそうだ。しかし、いくらエネルギー(カロリー)計算が出来ているといっても、おかずでなくご飯でそれを稼がれてはやっていけない。本当はいけないのだろうが、私はふりかけと佐賀の焼き海苔の缶を抱え込んでいた。妻に言って持ってきてもらったのだ。ちょっと贅沢だが、命のほうが大切だ。それでも、もともと糖尿病系ということで、エネルギー(カロリー)が一日1640と極度に少なかったから、ベースとして体がエネルギーを欲しがっている。だから、なんでも口に入れるとおいしく感じてしまうのだった。

  ところが、食事中にぽろぽろ食べるものが口の外に落ちる。勿論、左側からである。物が落ちるという結果からみてみると、唇がうまく動かないだけでなく、舌もうまく動いてくれないことが分かる。舌は、指で引っ張り出してみると、左半分にかなりはっきりした硬直がある。うまく動かないわけだ。

  かくて、正常だったときのペースで物を食べると、口の中で左側に食べ物が詰まって、中から外に出てしまうのだった。急いで食べるとと言うより、とくべつにそうならないようゆっくり注意して食べないと,簡単に唇を噛んで痛めてしまうのだった。でも、外に出るからまだ良いので、のどのほうに詰まると、うっかりすると命取りになるということだ。そこで、妻は、しょっちゅうそのことを私に対して注意していた。

「脳梗塞では死ななかったけど、食事を詰まらせて死ぬなんてしないでね」
「大丈夫、大丈夫」私は言いながら、ぽろぽろやるのだ。
「人の言うことを真面目に聞いてよ」

  妻は最後には心配するというより怒っていた。これは、私が性格的にせっかちなのがいけないのだった,とすぐ反省した。彼女に言わせると、私が洒落で済むと思っているほど軽いみっともなさではなくて、もうめちゃくちゃにみっともない、馬鹿になってしまったかに見えるということだった。・・しかし,事実は違うのだ。患者が特にせっかちや不注意でそうなるように見えるらしいが,そうではなくて,患者は麻痺のためうまく食べられないようになっているのだ。このことは,ベテランのナースでもしばしば気づかないらしい。そして,一方的に患者を責めることがあるらしい。・・・後に述べるが,私はNTT東日本伊豆病院退院後,自宅近くのリハビリ専門医院「桜町クリニック」に通院を開始した。ここのベテランリハビリ医で院長・長谷川幹(みき)医師の奥さんは,日本医大病院の婦長さん(復職して現在)だが,なんと7年前,自身が不幸にも脳卒中に襲われた。

 そして闘病の末いまは復職していられるというが,発病後,すぐ食べ物にむせて、看護婦に「そんなに慌てず食べなさい」と叱られて涙が出たという。そうではないのに,むせたのだ。自らも看護婦でありながら,普通の看護婦が病のせいでそうなっていることを,態度のせいにしてしまっていることに「倒れて初めて」気づいたというのだ。この病気は,かくも医療側の対応に不十分なところがある

…『リハビリ医の妻が脳卒中になった時』 長谷川幸子・長谷川幹共著 日本医事新報社 参照

  患者になってしまった段階で、本人及び周囲には分からなくなり、みえなくなってしまうことは山のようにある。私に言わせると、そのうちの一つが食べることであり、もう一つは「おどけ」である…いずれも患者が自らの尊厳を維持するのがいかに難しいか,周囲がいかに理解しがたいかを示すものだ。

  食べることは、ちょっと考えると排泄などと変わらない人間の基本行為のはずだ。排泄については、麻痺患者は病室内でさえ、ナースに支えられないと動けない状態になるし、浣腸だってしてもらわねばどうしようもないことがしょっちゅうとなる。でも、たとえ病室で浣腸をしてもらっていても、患者が馬鹿になったようには見えない。ところが、患者が自分で箸を使いながら、やたらぽろぽろ食物をベッドの上にこぼしていると、確実にバカになったように見える。でも、患者のわれわれのほうでは、しばしばうっかりと、どちらも病気のためだと許してもらえるような気になってしまうのだ。

  もう一つ、妻から厳しく禁止されたことがある。舌の筋肉のリハビリを人前でやるなということだ。すこしあとになってのことだが、私は、舌の左側に筋の硬直があるのを見つけた。そして、それは自分で舌を引きずり出して、その硬直部分をマッサージすると明らかに効果があることも知った。これは、伊豆病院の言語療法士勝山先生に教えてもらった。で、さらに私は、口をあけて舌を突き出し、左右にくるくる回すリハビリもやっていた。これは自前のメニューである。これを退院後、茶の間でやると、家族の猛批判が殺到するのである。

「やめて。みっともない」
「冗談じゃないわ。ただのバカ」

「バーカ」とまで言われると、私も憤然とした。だって、遊びでやってるんじゃない。ところが、その格好をちょっと鏡に映してみたことがあった。口をポカーンとあけて、舌を突き出し、先を左右に振っている。無理に可愛く言えば、しっぽの短いネコが 無理やり尻尾を振っている図だが、尻尾の下の肛門からはウンチのしみとしてのよだれが滲み出ている。なぜか、われわれの頭脳に
「こいつは間違いなくバカだ。これはけっして脳梗塞によるものなんかじゃない。もっとホンモノだ」
という確信を生ませるような図なのだった。

  私も、鏡を見て愕然とした。ひどい。この鏡に映っているバカは脳梗塞の影響なんかではない、もっとしっかりしたアホだと、自分でさえ思えるようなものだった。人間が嫌悪を感じる、または心からの軽蔑感を持つのは、一人の個人の人生で社会的後天的にインプットされたものだけではない。ヒトになって400万年のあいだに、世代を超えた長期記憶としてインプットされたものがあるに違いない。唇を開いて、中で舌を振るのは、間違いなく誰にでも嫌悪感を生じさせる。私自身でさえ、鏡の中の私を嫌悪したくらいなのだから。こういうものは、病人だからといって許してもらえない行為なのだ。

  で、結局私は妻の好意により(怒りにより?)しっかり「よだれかけ」をかけられることになってしまった。もうよだれかけでお洒落するしかないのだった。そして、こういうことでは、お洒落はいいが、絶対に洒落はいけない。たとえば、越中ふんどしがよだれかけに使えるとかいって、そうしていると、いかにジョークから出たものであっても、貴方の愛する配偶者はキット去っていくだろう。大体、倒れた時は、夫婦の危機だから、ジョークは抑えたほうがいいだろう。で、私も、ふんどしをよだれかけにしてウケを狙うことはやめにした。

  そして、こういうように苦労の末ようやっと食べた食事が、今度はなかなか体外に出て行ってくれない。動いていないから、ちっとも便意を催してこないのだ。だから、先に述べたように浣腸、浣腸の世界になる。私は、マゾではないが、やむをえない。動けない私は、ただテレビをつけ、パソコンでメールとインターネットのやり取りをし、Webサイトの立ち上げ(11月23日の私の誕生日に立ち上げる予定が出来つつあった)を構想していた。

  朝から晩までテレビを見てよいという、かつては夢見ていた身分に突然なったわけだが、いざなってみると、ワイドショーにのめりこめなくて弱った。ワイドショーにのめりこめないと、テレビは全く魅力のない箱としか映ってこないのだった。
チャンネル8に、毎朝、11時25分からぺットフーズ会社が提供する「ペット百科」という番組がある。このCMが秀逸で、基本ストーリーと最長で一週間ごとのバージョンアップ(更新)の組み合わせで流されている。田舎から東京に就職活動に来ているチャトラの猫がいて下宿しているのだ。そこにお母さんからテレビ電話で、ペットフーズを送ったからね、というメッセージが入る。「トラ」君は、電話をじっと見つめ、それが終わると、二階にある自分の下宿の窓をがらっと開けて故郷に思いをはせるというのが基本である。バージョンとしては、自分の下宿の道を隔てた反対がわの二階にもネコが下宿していて、顔を合わせるのだが、それがメスネコなのだ。そのうちに、そのメスネコはトラの部屋にやってきていっしょにお母さんの電話を聞いていたりするようになる。

  「トラや、就職先は見つかったかい?でも、焦るんじゃないよ。ネコなんだからね」と言う母のせりふに、私はいつも一人で吹き出していた。大体、何でネコが東京に来て就職活動をしていて、その母が人間なのだ。猫のとぼけた表情がなんとも言えず可愛い‥まあ、出演しているネコにしてみれば、トボケているしか出演のしようがないわけだが。こちらは吹き出すというと、もうマジにドバッと食べ物を吹き出してしまう。もしも口の中に何か入っていたりするとどうしようもないくらいだ。これも妻にひどく迷惑をかけた。テレビを見るというと、その程度のものだった。

  あとは、サッチー問題の終盤に差し掛かっていたが、見ようと思えば見られはするが、関心はどうしても掻き立てられなかった。

  ただ、感情失禁というのだろうか、心がちょっとでも同情の感情を抱くような事件が報じられると、私の目からははらはらと涙が流れ出る。そしてそれを抑えることは出来なくなる。目頭がジーンとかいうレベルではない。まさに滂沱の涙なのだ。テレビを見て泣いているとき、看護婦さんが入ってくるとヤバイ。言葉が出ないからだ。そういうとき、言葉を出すと、子供が嗚咽しながら何かを訴えているようなことになってしまう。非常に困る。逆に、ペット百科を見ているときのように、おかしいと思っているときも同じである。笑いが止まらず、吹き出すことも抑えられないのだ。この感情失禁と、先に述べた情動の凍結は全く並行して私のところにやってきた。不思議なことである。一見、全く逆の現象のようではないか。でも、全く、同時平行で存在していたのだった。感情失禁は面白い話や、悲しい話を他人に伝えるとき、止め処もない笑いや、滂沱の涙を伴わなければ伝えられないという困った状態を生んだが、では、その感情の対象に私がこれまで以上に心の「移入」をしているかというと、別にそうではないようだった。俗にいう、「ぐっと来る」点が2〜3段階下がって、簡単に胸が詰まってしまうのだが、涙を流しながら、自分のことを「馬鹿、こんなうそっぽいことでなにを泣いているんだ」と客観化出来るのは病気前と変わらないのだった。むしろ客観的批判力は、以前より冷静にして高まっていた。

  そこらはひょっとしたら、医者や看護婦は分かっていないのではなかろうか。脳卒中の患者がバカになっていると思いがちだが、それは「見かけ上」の場合が多いと知っておいたほうが、何かとトラブルが避けられるのではなかろうか。よく、ぶりっ子タレントの「ウソ泣き」が話題になった。彼女らは、喜怒哀楽に反応する生理的閾値がもともと低いか、あるいは金とか男のために平気で意図的にそれを下げられるのだろう。だから、勿論、本気でないてなんかいないことは、もう誰にも知られている。彼女らは、要するに「泣ける」人たちなのだと理解されている。で、卒中患者の私は、生理的に「泣いてしまう」人たちになっただけかもしれない。内実は、むしろ冷静というか、自己客観化が出来るというか、情動的ではなくなっている可能性があるのだ。

  で、私はと言うと、少しおかしいと心からのように笑えるようになった事を「利用」して、医科歯科大からNTT東日本伊豆病院へ転院したあとからは、友人に手伝ってもらって、休み時間にビデオ店に行って、楽しんで笑えるビデオを借りてきた。ビデオデッキは、超安いものを朝比奈君に買って来て貰った。これで、ニコニコ笑うリハビリが進んだのである。‥笑う門には福来る…笑う顔には麻痺消える。

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「遺作」執筆開始さる
  死神に背中をポンとたたかれたら、もうそういう人生の瑣末な?日々のできごとに関心が持てなくなったのか、それとも何かわけでもあったのだろうか。 ともかく、ベッドに貼り付く日々となったが、いのちは一応助かったということが分かってきた。分かっては来たが、死神に背中をたたかれたことも間違いない。「命の限り」が意識されないと言ったらウソだ。それに、しばらくのあいだ、夜寝る前に脳の中から不気味な音がしていたのだから…。

  私は、右腕に抱えるノートパソコンThink Pad 570のキーを右手一本で叩いて、「遺作」を書き始めることにした。テーマは、歴史である。

  私は以前から、現代世界を今も支配する光と闇の構造を記述したかった。いわゆるユダヤ金融資本の出自と、現代世界における動きの意味を明らかにしたかった。そして実は、倒れる前から、資料は少しずつ集めていた。でも、健康がまだあったころから、「これは遠からず時間切れかな」という疑問が自分のなかに沸いているのを自覚していた。何が時間切れかというと、「フィクションではないぞ、史実だぞ」と誰にも文句を言わせない資料は、自分に残された時間では集められないかなと悟ってきていたということだ。

  世界史を動かしている実体的エネルギーについて、私は分かったような気がしてしばらくたつ。天才数学者ガウスは言っている。「私は解をずっと前から得ているが、まだそこにどうして到達していいかを知らない」と。これは、解を導く方程式のことだ。私たち社会科学者は、資料とか、証拠とかのことになるだろう。これは、数学より厄介なことなのだ。なぜなら、史料や証拠は、しばしば意図的に隠されたり、隠滅されるからだ。

  けれども、ここまでの学者生活や政治家を含めての実生活における考察を通じて、「これは間違いない」という像もできていたことも事実だ。時間が切れてきたなら、もうそれを書いておく必要があるだろう。否定したい人間は必ず出てきて、彼らは、たとえ文句のない事実を突きつけられても、なんとか否定しようとする違いない。現代史にかかわることも多いのだから、その利害に関わる勢力も出る。それなら、もう書くしかない。

  だが、史実の資料が欠ける部分は、どうするか。推測ということでそこを埋めて書くのか。もう一つは、もう、あえてフィクションのかたちに身を隠すという可能性もあるのではないか。断固たる事実を背景にしたフィクションなのである。やがて、そう近くはないにしても、いつか出来る奴がこれは根源はフィクションではないと分かればよいのである。

  本と言うものは、よほど印税が期待されるシチュエーション以外では、ごく少数の分かるやつが買うだけでも書くのが本当だ。そういう意味で、本と言うものは、本来は常に「遺書」なのである。

カフカス短剣

  で、私は「遺作」を実際に書き始めた。歴史の舞台を回したのはコーカサス (現地語でカフカス) 地方であるという導かれていた一つの結論から、「カフカスの短剣」なる題名が生まれた。私はそれを、これまた長年温めていた記述形式たる長編ミステリーとして書き始めたのである。写真は、装飾はあるが本物のカフカスの短剣・・これは宝剣ではない。

  短剣というのは、'99年秋、バグダードで入手して、あまりに作りがリアルだったため国境で没収された宝剣への思いから来ている。柄に赤 (あえてルビーとは言うまい)、さやの先に緑の (これもまさかエメラルドとは言えない) の石が象嵌されていた。勿論、実戦用ではなかったが、一回や二回なら殺人に使えることは間違いなかった。ミステリーだから、筋立てを明かすわけには行かないが、長さはおよそ2000枚にはなりそうだ。密室殺人とその謎解きだけで話しは進んでいくが、表面の動機のかげに歴史的な謎が密度濃く潜んでいて、本当につたえたいのはそこにあるというものだ。

  大変難しそうだが、私は既に500枚くらいは書き込んでいる。この500枚のうち、400枚は、15階の病室にいた一週間で書いたものだ。で、その後はどうなったか。どうもすぐには死ななくてよいということになったあと、病院も私をもといた16階の病室に戻したのが、発病後、ほぼ10日後。それからしばらくは、Webサイトの立ち上げに没頭して、政治経済の論文をいくつか書かねばならなかった。16階に戻ったら、病院内のリハビリメニューも始まった。要するに、非常に忙しくなった。まだもう少し生きるためには、リハビリは絶対、重要だ。

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驚く見舞い客
    11月始め、リハビリも少しずつ進展しはじめたということで、私はまた16階に戻った。そこは、夜中に緊急にナースを良く呼ぶような患者には不適とされている。つまり私は、自分で室内のトイレにもいけるようになったし、一応、危機を脱した患者ということになったのである。すこしほッとした。そこまでに食事のエネルギーも「これでは力が出なさ過ぎる」と陳情して、1840カロリーにまで上げてもらっていた。たまたま時期であったのか、この効果は抜群で、私は日々、足元がしっかりしてくるのを感じていた。

  歩くようになると、私はせっかちだから、短距離なら、かなりの速さで歩いてしまう。それを見る人は、「へえ、聞いていたのとは違いますねえ」と驚く。しかし、作家で、電脳突破党総裁になる宮崎学氏や、友人の白川勝彦氏が15階の病室に見舞いに来たときは、まだベッドに貼り付けられていて、左半身完全不随の時期だったから、私の前で口には出さないがみなかなりのショックを受けて「これは重い」と思って帰ったのである。

  中には、秀学ゼミナールの中村氏のように、倒れる前の検査入院時にも医科歯科大に見舞いに来てくれた人がいる。勝手が分かっているので、自分で黙って予告なしに顔を出してくれた。そして、私が本当に倒れていた事を知って驚いてしまう人もいた。中村氏は、その後も続けて何べんも訪れてくれて、その後の急速な回復もわかってくれたから問題はないが、そうでないと、「あいつはもう駄目だ」といった、うっかりするとするとのっぴきならない誤解や波紋を呼びかねないと私は思った。

  だから、そのころは、友人の政治家や支持者に会うと、相手にかなりのショックを与えるだろうと考えて、ただ「病気」とだけ告げて、居場所や病状は「ノーコメント」にしておくことにしていた。だって、それほど私を見た人の反応は、私から見て「深刻」に見えたのだった。

  私にとっては、私の病状それ自体よりもはるかに、私を見舞った人の反応のほうが深刻に見えた。秀学ゼミナール代表の中村氏などは、その後、歩けるようになってから顔を出したとき、思わず「あー良かった」と大きな声を出してしまったほどなのである。結局、国会はズーッと休まざるを得なかったのだから、「かなり重いに違いない」という噂が出るのは仕方がないとあきらめていた。実際、一時期は完全な左半身麻痺だったのだから、とても軽いとは言えなかったはずだ。

  ひどい状態のとき病院に来てくれたのは、白川勝彦氏、宮崎学氏、電脳キツメ目組お使い係T氏、弁護士の西垣内憲祐氏、光文社小野俊一氏、トドプレス代表小黒一三氏、友人の三菱商事監査役入山利彦氏、藍澤証券会長藍澤基弥氏、ジャーナリスト松永他加志氏、秀学ゼミナール代表中村弘道氏、同秘書角川氏、徳田虎雄秘書能宗氏、月刊現代編集部藤田康雄氏、もと自由大学生大門千寿子氏だけであった。少し室内を移動できるようになっても、せいぜい、オーヴァーレーヴの冨安大輔氏、モンゴル人詩人のボヤン・ヒシグ氏くらいのものだ。政治関係の連絡は極力抑えていたから、このくらいである。でも、マスコミ関係者中心に、どうしてもというのをこちらもどうしても込まれうと断っていた。マスコミ関係にいると、知ってしまえば、知らないほうがとぼけられてよかったということが起きるからである。

 このうちのほとんどの人が、私の動けない姿を見てかなり驚いたに違いない。白川氏は、10月27日金曜日に倒れた私が、30日月曜日に会う約束をしていたものである。約束の場所にいけないという私の電話を、彼は直接受けている。だから、舌のもつれも聴いて知っているから仕方はなかった。彼は、11月2日木曜日に見舞いにやってきてくれた。まだ、非常に半身麻痺のきつい時で、見舞いに来た白川氏の表情からは「これは大変だ」という感じがありありと見て取れた。それを見ながら私は、あまり今たくさんの人に会わないほうが良いなと最初に判断した。また、講談社の藤田氏は原稿の打ち合わせがあって、これも連絡するしかなかった。

  こういう人たちを除くと、不要の心配と混乱を招いてはいけないということで、私は倒れたとの連絡を差し控えた。だから、後のテレビ・週刊誌ではじめて知った親しい人たちには申し訳ないと思っている。

ところで、私も病床で迎えた誕生日の11月23日にWebサイト(ホームページhttp://www.homopants.com)を立ち上げたが、その一週間後、白川勝彦氏も自分のWebサイトを立ち上げることになる。自自公連立批判と創価学会批判を軸とする「戦うインタ―ネット」として有名になるhttp://www.liberal-shirakawa.netである。
白川氏には、見舞いのお礼に、私が秋に購入したばかりのノートパソコン、レッツノートを進呈した。2〜3回メールを打つのに私が使った程度の新品である。私自身は、外国でもモデムが使えるIBMに変えていた。私は、筆圧ならぬキー圧がきわめて強く、外国にもよく持っていってモバイルするので、IBMのThink Padがグッドチョイスだったからだ。私は、白川氏にかなり前から、これからの政治におけるインターネットの重要性を説いていたから、これで是非前進して欲しいという意味のプレゼントだった。私はそのとき、「形見だよこれは」と冗談を言ったが、白川氏がなんだか深刻な顔で真面目にとりそうだったから、慌てて冗談めかして「部品代はとるよ」と付け加えたくらいだった。

  その後、彼は大いに頑張り、最初はパソコンを開いてもディスプレイの角度を変えると液晶の反射が違うといった初歩的なことをも理解せず、指導に当たった者を散々嘆かせたものだが、いまや一転、インターネットの戦士になってしまった。まことに熱心で馬力のある男なのである。

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いったん退院、NTT東日本伊豆病院に
 

  11月中ごろから、私は、院内リハビリ室にも自分で歩行して通うようになった。マスクはちょっと逆に目立つぞとの意見もあったが、いつも白いマスクをして院内を歩行していた。11月下旬のある午後、自分の病室を出て行こうとしたら、旧知の自民党前東京都連会長の島村義宣氏と、ばったり顔を合わせてしまった。まことに驚いた。氏は、秘書に花かごを運ばせて歩いていた。後で聞くと、同じ16階の三つほど離れた部屋に、江藤・亀井派の江藤氏が定例の検査のため入院してきていたのだった。島村氏とは顔を合わせたが、気づかれなかった。大して大きいマスクではなかったが、こちらはすっかりやつれてもいるし、意外に有効なものだ。絶対に、マスクはしていて良かった。

  で、それ以来、マスクは病院内の移動には欠かさないことにしたが、次の病院に移って、病院に出す洗濯物の中にうっかりマスクを入れて出してしまった。そうしたら、何と、帰ってきたときには、マスクの正面に大きく「栗本慎一郎」とマジックで大書してあった。もちものには姓名を必ず分かりやすく書きましょうという病院の指導があったからである。向こうの親切に違いなかった。でも、まさか、栗本慎一郎と口許に大きく書かれたマスクをして廊下を歩くわけには行かないから、捨ててしまった。

  12月4日、私は容態も安定したからとして、いったん医科歯科大の病院を退院、同神経内科下川雅丈医師の紹介を受けて静岡県田方郡函南町のNTT東日本伊豆病院に転院した。ここは旧陸軍病院、ついこのあいだまでは伊豆逓信病院の名称で馴染のある病院であった。いまでも、周辺では逓信病院で通っている。五反田の逓信病院の兄弟だ。ちょうど、時期も12月、寒さに向かうし、「伊豆」というから暖かいかなという期待をもったが、伊豆は伊豆でも函南は北伊豆、それも富士の南の裾野で、富士から降りてくる北風の冷たいところだった。函南のとなりの三島は、富士からの風が冷たくて、その富士からの地下水が冷たくてうまくて有名なところではないか。暖かいのは人の心ではあったが、この病院の北向きの病室でパソコンをいじっていると、左肩が痛んだ。でも、「伊豆だから、きっと暖かい」とは医科歯科大の教授も言っていたことだから、一般的イメージなのであって誰も責められない。

病院から見る富士  病室は、たまたま北向きであった。北向きだと富士山が見える向きなのだが、私の病室は一階で、窓の外は狭い中庭があって、その先に二階建ての別棟が絶っていた。だから、富士山など全く見えなかった。それでも、北向きは北向きので、風が冷たかった。――左は病院敷地内から見える富士

  持ち込んだノートパソコンと、つかれ目対策としての19インチモニター、外付けキーボード、そしてスキャナーはベッド横で窓際の北の隅におかねばならなかった。だから、ちょうど北風が窓越しながらこちらの左肩に当たってくる形になったのだった。
 「クシャン」
私は良くくしゃみをした。これを、私はもっと深刻に対策を立てて、考えておくべきであった。いずれも後知恵になるが、くしゃみをした時、左肘がパソコン台に乗っていると、時々、その弾みでひどいショックを受けて「疼痛」がきた。椅子がまた、事務の好意(絶対に好意!)で、キャスター付き、肘掛付きだったから、くしゃみのショックでキャスターが滑る。滑ると、肘がパソコンデスクに当たることも良く起きたからである。でも、それは、こちらが注意しておくべきだったろう。しかしながら、左肩が北向き、キャスターが滑るということで、私は自分で頑張りすぎた肩リハビリも含め、かなり左肩の関節を悪くしてしまったのである。これは、大反省だ。

  私は毎日朝9時から11時まで作業療法OT、3時から運動療法PT、週いっぺん木曜日に言語療法、さらにあいまに防音室を借りての自主言語トレというようにぎっしり日程を詰め込んで、さらにもっぱら野良猫へのえさ配りタイムとなる散歩トレーニングの日々を送った。自主言語トレというのは、要するに大音声で歌を歌うことだった。まず最初は、大きな声を出そうとしても、出ない。声帯左が麻痺しているからである。単純にアーという声を大きく出そうとしても、すぐにかすれてしまうわけだ。だから、大きな声を出して歌を一小節歌うなんてことは飛んでもない難しいことだった。

  ところが、本人は最初はそんなことが大変だとは夢にも思っていないのだ。だから、歌も歌えると思っていたが、これがもうびっくりするほどド音痴になっている。発病後初めて歌を唄ってみたのは、一時帰宅していた12月始めだったが、あまりの下手さに、私は気絶しそうになった。声が大きく出ないのはともかく、音程というものがまるでとれないのだった。

  そこで、伊豆病院では言語療法士の先生に頼んで、防音室を開けてもらい、中で、思い切り歌を歌った。これは、私には下手で駄目なりに効果があったが、親切で部屋に置いてもらっていた録音機を使ったら、これまた、そこから聞こえてくる私の唄のひどさに自分で驚いて、部屋を出るとき録音したものを消し忘れないよう注意することしきりだった。いまだに、唄はひどいものだが、少しも訓練をしていなかったときの唄いっぷりといったら、どう工夫したら、これほど下手に歌えるんだというほどのものだった。あ〜、思い出しても冷や汗が出る。

  伊豆病院は旧陸軍病院だけあって、敷地は広かった。敷地内には老人ホームや職員寮もあり、年降ったいい感じの樹木もあった。いろいろな建物の陰が多いから、野良ネコも暮らせるのだ。可愛いネコがあちこちに分散してすみ分けていた。でも、私が見て一番のベスト・ネコ・スポットはボイラーの湯気が地上に湧き出ているところだった。そこらは地面全体が暖かい。そこにいつもうずくまっている三毛猫は、私の羨望の的だった。でも、そういうネコも寒風吹きすさぶ日には、湯気なんか完全に吹っ飛ばされて、病棟と病棟をむすぶ廊下のガラスの側面にへばりつくようにやってきて「入れてください」とせがむのである。伊豆病院は、空間的には贅沢な作りで、低いいくつかの棟をガラス張りの廊下でつないでいる。だから、病院内を移動する時、廊下で外の景色を見ることになるのである。そのガラス張りの下のほうにネコがへばりついてくる。

  「俺はそんなネコを見ないなあ」という人がいたが、ネコは自分たちに冷たそうな人は最初から避けているということを、こういう酷薄な人は知らないものだ。私が出会ったネコたちはほとんど、寒さで死ぬフランダースのイヌ状態だった。私は、この函南のネコには、アントワープのパトラッシュならぬ函南のキャトラッシュと名付けた。寒そうで寒そうで、悲しくて、見ていられない。そのくらい寒いところだった。でも、人の心は暖かだったから、私も、ネコには出来るだけ親切にしてやった。ホカロンをいくつか窓からほおり、餌もほおる。そして、翌日、ホカロンは拾いに行く。掃除のおばさんに悪い。で、餌は、と見るとちゃんとなくなっていて、わずかに私とネコのコミュニケーションが成り立ったことが分かるのである。しかし、ネコ好きの患者や、職員、またはナースがいることを見込んで、飼い猫を捨てていく奴があとを絶たないようだ。私が去った後でも、シロのほかに、やはり人なつっこいクロが登場したと聞いた。やめろ、可愛いネコを捨てるのは。

  こちらは、とにかくネコに比べて有利な点は、人間の金を持っていることだ。だから、キャットフードが買える。で、みんなに配って歩いたが、他にも結構猫好きな患者がいるらしく、安いものは「ネコまたぎ」される。そういう点、ネコは正直でよろしい。

  私は、遠くから私の顔を見るとやってきて、膝の上に乗って昼寝したがるシロというネコと親しくなった。もうリハビリの時間だからと、立ち上がろうとすると、まだここにいろと膝に爪を立てるのだ。大体、足の訓練の散歩に出て、ベンチでネコを抱いていたのでは、リハビリにならないが…。

 午後3時からは運動療法のリハビリがあって、それを1時間くらいで済ますと、また作業療法室に出かけて、左手の治療を行なった。OTの山崎多紀子さんには、左手をマッサージしてもらったり、大変世話になり、世話になりついでに、栗本式鏡箱の使用を奨めたりした。終われば、もう6時の食事である。もしも真面目にリハビリに取り組んでいると、早くももう完全に眠くなる時間だった。夕方6時にもう眠くなったのでは仕様がないが、実際そうなのだ。

  テレビもほとんど見なくなった。だって、伊豆病院では医科歯科大では入っていたNHK衛星放送も入っていなかったので、ほとんど見るものがなかったのだ。とにかくもう伊豆病院での私は、自分で院内を歩けるし、売店で雑貨も買えるし、かなり自由であった。しかし、転院した当初は、左足を前へ出すたびにぴょこっと蹴るような感じが消えなかった。しかし、それを押さえ込んでかかとから地面につくように歩きなさいという指示を守って歩いて(一日最低7000歩)いるうちに、だんだん、見た目では問題なく歩けるようになってきた。しかし、そうすることは、背中、左足にかなり重度の凝りを発生させる。

  「温泉が有ると良いけれどなア」というのが、正直な感想だった。風呂は勿論、あったが、温泉ではない。病院から車で5分の近さに、伊豆でももっとも人里に近いというので有名な畑毛(はたけ)温泉が有ったし、伊豆長岡温泉も30分の距離だったが、病院にないのは残念といえば残念だった。関節炎や凝りのような症状には、温泉はよく効くはずだった。でも、しばらくすると、私は土日にタクシーに乗ったり、同じく土日に車を使って見舞いに来てくれた友人に畑毛か長岡まで、運転をせがんで温泉浴に出かけるようになった。12月上旬に入院して、2月上旬に退院するまで、畑毛に7回、長岡に4回、天城温泉に2回、遠征して入浴したものである。

  幸か不幸か、伊豆の温泉も不況の影響を受けていた。バブルの時にはホテルだったものが、日帰り入浴専門の、言って見れば高級銭湯のように変わっていて、気軽な旅人や、近隣の人の訪れる場所になっていたのである。畑毛温泉のある宿などは、露天風呂付きなのだが、近隣のじいさん、婆さんの溜まり場となっていた。混浴ではないはずだが、ひょっと見ると、となりに毎日来ていて顔色のいいお婆さんが入っていたりする。大体は、どこの宿でも男湯のほうが広く出来ていると見えて、「おじいちゃん、だいじょぶかい?」なんて、介護にでも来るような声を出して婆さんが入ってきてしまう。四方山話をした後,「あれ?」と思ったりする。のんびりしたものなのである。これで、大広間での休憩権付きで一人1200円が相場だ。みんな朝から弁当を持ってやってきて広間で寝そべったり、テレビを見たり、また風呂に入ったりなのだ。

  これは、畑毛温泉の話であって、一応、全国に名がとどろいている伊豆長岡温泉となると、高級銭湯もそれなりに高級になっている。露天風呂も石組みがしっかり作られているし、ぬるくて有名な畑毛に比べて熱い。私は、入浴客の回転を良くするためじゃないかと疑っている。でも、設備は概して高級である。レストランもついているのが普通だ。もとホテルだから、個室をとると、本当に「ご休憩」という感じになるものだ。もっとも料金も畑毛よりも少し上がって、個室料もひと部屋6000円くらいになる。ラブホテル並みだろう。実際、ラブホテルに使っている輩もいるのだろう。

  伊豆半島を一歩中に入って、天城町にまで行けば、町営でそういう高級銭湯風日帰り温泉が出来ている。これは、部屋は立派ではないが、風呂はいい作りである。ドライブ客などには最適だろう。どちらが先か、どちらが真似たかは知らないが、町営温泉のほかに、巨大な日帰り入浴用の会館が出来ていた。何々の湯、何々の湯という名のついた洒落た風呂場が、多数あって、日によってオープンしている湯が違うのだ。みやげ物店、食堂、休憩室等もおおきく完備されていて、5階も6階もあって、中で迷いそうになるくらいだ。そこにも見舞いに来た家族と一緒に行ってみたが、大きすぎて、集団で来ている客が多く、私たちには不向きだった。

  こうして、温泉に行ったのも問題は左手であったからだ。頑張っているうちに、肩に痛みが出てきたからだ。特に正月に一時帰宅して自分で何事もやろうとした後がいけなかったように思う。温泉といっても、所詮、毎日入ったわけではないし、見る見る効果があったというわけにはいかなかった。

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半身麻痺、栗本引退か!

  12月14日にNTT東日本伊豆病院(旧名伊豆逓信病院)に入院して一週間ほどしたころである。「週刊宝石」誌が、私が倒れたことをトップで報じた。トップである。これはおどろいた。週刊誌は一般発売の前に取次店に入るし、マスコミは少し早く入手する。一気に取材が殺到したのだ。
「まずい」これは療養なんか出来なくなる。

  だが、インターネットメールでだけ取材に答えることで、対応は勘弁してもらった。正直なところ、自分の支持者を含めて、どういう反応が起きるのか、まったく見当がつかないというところだった。倒れて病床にあるということは、既に医科歯科大にいたときから自分のWebサイトには公開していたから、病気について嘘をついて隠すような気はなかった。しかし、政治家というのは常に敵があるというなんとも因果な商売である。選挙があって、それに当選してきているということは、理の当然だろうが必ず誰か他人を落としてきているということを意味する。私が、次の選挙を引退するにせよ、再び挑戦するにせよ、誰かを喜ばせ、誰かを敵に回すことになる、そんな宿命なのだ。100人のうち、100人全員が喜ぶということは絶対にない商売なのだ。だから、次の選挙をどこでどうすると簡単には言えるものではない。

  私は引退の可能性があること、家族の態勢も万全ではないことを短いメールのなかで正直に認めることにした。だって、それは隠してもしようがないではないか。「引退」というのは、普通ならそもそもの最初に出てくる結論だと思う。だって、倒れてしまったのが事実なのだから‥。

  ところが、ちょうど始まったばかりのWebサイトからこちらに入ってきたメールは、すべて「引退するな、頑張れ」というものだった。政治評論家の細川隆一郎先生からは、私の高校(細川先生にとっては旧制中学)の大先輩なのだが、「引退無用」とおおきく墨書した書簡(あれは手紙なんていうものではない書簡である)を頂戴した。勿論、栗本の野郎、ちょうど良いからやめろというメールを打つ人は概していないわけで、そこから判断するわけには行かないが、「頑張ってくれよ」というのがほとんどではなく全部だった。もうやめて欲しいというのは実の妹とか家族の声であった。

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生きる気力をくれたおからクッキー

  そういうメール以外には、ほとんどが「これが効きますよ」という自薦他薦の治療法の紹介だった。その紹介の半分は、心からの善意、残りの半分の半分は、本人は信じているが要するに宣伝がてらの売り込み、そのまた残りは、ただの倒れた弱みにつけこむ商売そのものの売り込みだった。中には、「私が貴方の恩人になってあげようではないか」なんて、とんでもない押し付けもあった。ただでその特製治療器をくれるというので、これはまずいと思い(だって、ただでもらったら、一方的に宣伝に使われるだろう)購入したら、何のことはない。手で握って握力をつけるともに、一応の工夫としては手のひらの刺激になるようなクッション付き棒がいくつもついているものだった。別に害になるものではない。また、手のリハビリに効果がないわけでもない。だが、軟式テニスボールや、たくさん売り出されている手のひらリハビリグッズと決定的に違う効能があるわけではない。でも、それは「これですべてが…」といった超オーバーな宣伝が必ずついている。そして、決まったように西洋医学の限界が指摘されて、経絡がどうの中国医学ではなんだとの効能書きがついてくる。

  はっきり言って、経絡というのは確かにあるようだが、ここがこうで、どことどこがどう繋がっているから、ここをこれによってこう刺激すると良いというように言えていないものは、結局、全体としてはインチキだと思ってよい。ただし、それらの器具がたまたま、症状に合った患者がいることがありうる。そこで少しは本当に効いた(と言っても、時期を急げと強調することが多いのは、実は自然治癒があったのをその器具の功績にしていることが多いと想像される)のだろう。でも、とにかく、「これですべてが治る」とか、「これをやらなければ駄目だ」といった、過剰、かつ脅迫的な宣伝のものは、みんなインチキだと思ってよい。インチキと言うのは少し言葉がきつい。器具自体ではなく、宣伝がインチキだと言っているのである。

  ところで、後に述べる「恩人」おからクッキー系食品もほとんど、「これがすべてだ」的な宣伝文句になっていた。だから、そこは少し訂正してもらった。売っているのが私の弟子だから…。だが、おそらく患者のほうも、そういう「これ一発がすべて」みたいなものを求めるのだろう。その気持も良く分かる。だから、売っている側、宣伝している側だけを責め切れはしない。中には商売ではなく、本気で自分が分けているものが効くから、是非みんなに分かってもらいたいという「善意」からオ―バーな宣伝に走るというケースも多かろう。私だって、ラマチャンドランー栗本式鏡箱が本当に効くと思っているから、保守的な医者から見たらきつい紹介をしているのである。

  そういう風に言ってきている中にも、丁重な物言いが印象に残るものもあった。「――道の――坊ですが、治癒の試みをさせてください」と、ごく丁寧で品の良い申し出もあって、これには心を動かされてうれしくないこともなかったが、「栗本さんの病気は自律神経の失調です」と、遠くから断定されると、それは違いますと答えるのは面倒なことだった。まともな医者でさえこちらがたまに(おそるおそるだが)講義しつつヤット治療を進行させているのに、他の要因が入ってはもっとうまくいかない。だから、心で感謝しつつ返信はしなかった。お許しを請う。

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食べ物のダッチワイフ‥おから
 

  しばらく連絡がなかった昔の学生からも、近況報告がてらたくさんのメールが入ったのはうれしいことだった。これはまさにテレビと週刊誌のおかげであると、感謝を申し上げる。そういう中でも、うれしすぎて、かつ悲しくて、涙が出たのは、結構気に入っていた女子学生が、いまや健康食品をも取り扱うおおきい組織のマネジャーをしていて、いくつもサンプルを提供してくれた中に、「おからクッキー」があったことだった。僕は糖尿病だったのだから、おからは血糖値等には良いに違いない。善意に違いない。いや、愛情かもしれない。しかし、なんと「おから」である。言ってみれば、食べ物のダッチワイフではないか。わびしすぎる。おいしくてもそのネーミングはなんとかならんのか。

  で、食べたら、送ってくれた彼女にはスマンのだが、いかにも「まずい」。病院にいて、薄い味でも敏感になっているのにまるで味がしなかった。ダッチワイフの薄味である。大穴ダッチワイフだ(表現が下品で失礼!)。でも、どこに幸運があるか分からんものだ。私はいま、このおからクッキーに感謝している。

  だって、おからのクッキーを食べてまで生き延びたいとは思わん、と思えたのが、このおからクッキーの効能だったからだ。おからクッキーを食べていると、人生に対する見切りがついた。病室に置いておいて、ちょびちょび、ちょびちょび、必死の思いで一週間ほどかけて食べ尽くすうちに生きる気力が湧いてきた。

  どこかの難民が、蛇やトカゲを食べて飢えをしのいでいるうちに、ようしどうしても生き延びようという意欲が逆境に湧いてきたという話しに似ている。おからクッキーは、闘病中の私に、必ず生き返って、ダイヤモンドクッキーだろうとエメラルドクッキーだろうと(そんなものがあるか!)ぜったいに食べてやるぞという意欲を回復させてくれた恩人なのである。――ただし、食べている時、ナースに見つかりはしないかと心配でいつもこそこそ隠していた。

  「イヤーねえ。あの人。人に隠れておからのクッキーを食べているのよ。あれで、本当に料理の鉄人の審査員だったのかしらねえ」なんて、言われるのはまずいではないか。患者にだって、見えがあるのだ。だから,このころ,パソコン友達で,私のパソコンにトラブルがあると,よく病室まで来て教えてくれた元慶大月ヶ瀬リハビリセンターOTの森ひろみさん(鏡箱の実製作者でもある)も,室内に巧みに隠しておいてあったおからクッキーには気づいていなかったようなのだ。

  有難うよ、キャリア若妻の彼女。旦那と幸せにしてくれ――そして、自分でも口移しでおからクッキーを旦那に食べさせてやってくれ。私の恩師も喜んで食べていて、とってもおいしいって言うの、とか言うんだぞ。こういうわけでホームページのアクセス数もここで一気に上がった。ホームページは、開設初日がなんと1000というハイだったが、さらに一月で1万5000、2月で3万という個人サイトとしてはかなりのハイペースで進行しているのである。ほとんどが字だけの個人サイトで、これは大したものではないか。

ところで、ここでその彼女からメールが届いた。

…ところで、おからクッキーのアップありがとうございます。
まずかったのは、申し訳ありません。糖尿病に砂糖は良くないと思い、砂糖不使用のクッキーを選びました。(…とほほ、こちらは涙。)
…でも、回復に一役買ったのは、良かったと思っています。
…それから、家庭はだんだん平和になってきています

…それはよかった。是非旦那さんにもおからクッキーを!

 おからクッキーも何とか食べきり,これで精神的自信のついた私は伊豆病院をいったん,退院した。そして、東京の自宅近辺のリハビリ専門医院「桜町リハビリテーションクリニック」(長谷川幹院長)に通院することとした。長く日産玉川病院でリハビリ医だった院長で、奥さんが病院婦長サンながら、自らも脳卒中で倒れたという貴重?な経験の持ち主 としても知られている。‥先にも述べた『リハビリ医の妻が脳卒中になった時』日本医事新報社。

 ここで、私は左肩のレントゲンを撮ってもらった。伊豆のときは不明だったが、今度は鎖骨と肩甲骨の間が少し離れてしまっているとのことだった。「これは、結構古いものではないですか?」と院長。もしそうなら、肩の痛みは、古傷を自分で意識できず、自分の下手なリハビリで拡大してきたことになる。なんとも難しいものなのだ、と痛感せざるを得ない。3/24修

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梅から桜へ、そして復活へ

   そうこうしているうちに、季節はいつのまにか春となり、それもあっという間に梅から桜の季節に向かっていった。

  2月4日からは、私は東京の自宅に戻っていた。函南の寒い寒い2月を避けよう、そして4月の花見に来ようと決心したからだ。そして、東京医科歯科大への通院と自宅近くの桜町リハビリテーション・クリニックに通ってリハビリを行なっていた。医科歯科大への通院は2週間に1度、リハビリ・クリニックには、週2度のペースであって、さして詰まった日程ではない。通院のリハビリというと、どこでも誰でもこんなものだ。だから、その「暇」な時間をサボる時間にしてしまうと、体はどんどんなまっていってしまうものだ。

  私は基本的には、医院や病院に通う時間を、専門家による私の状態に対する判断を受ける場として考えて、それ以外の時間をより大切にすることにしていた。病院に入院していない限り、リハビリ室にいない時間のほうが誰でも多いに決まっている。また、実はリハビリ病院に入院していても、リハビリ室にいるよりも自分で管理しなければいけない時間のほうが圧倒的に多いものだ。 

 だから、リハビリの実践の中味自体は、私自身がメニューを作って実施していくものが主体である。体調を見ながらだが、基本的にはこうだ。

  1. 一日6000歩の歩行、その散歩中に体幹の捻りを可能にするよう意識した柔軟体操をすること。これは、麻痺が体幹(体の中心軸)に硬直を与え、捻りや振り返りが最初はほとんどでできなかったのに対処しようとしたものである。捻り、振り返りが出来ないと、町を歩いていて、突然、なにかに反応する時危険なのだ。これは健康なものにはまったく分からない感覚といっても良い。
    ‥たとえば、突然、人にぶつかられたりすると、ヒトは脳の運動中枢による指令ではなく、瞬時に大脳基底核の命令で反応する。その命令は、身体に麻痺がないと仮定したものだから、その時の動きによっては、麻痺という不自由さを持つ身体は簡単に転んだり、関節を痛めたりする。これは、ものすごく危険なことなのだ。転ぶ時、受身のようなものはまったくとれないからだ。だから、麻痺者を驚かせて、突然の反応をさせるような行為は絶対に慎まねばならない。分かりやすく言えば、びっくりして振り返らせるようなことをしてはいけない。これは、麻痺者のほうではどうしようもない。体は勝手に反応してしまうのだから。
  2. 栗本式鏡箱による指と肘、肩の運動訓練30分(午前、午後各15分、妻に介助を依頼)。
  3. 柔らかいボール(非常に柔らかいおもちゃボール)を両手でリズムをつけて同じように握って両手協調運動を基本とする手のリハビリを事実上四六時中実施する。肩を休めるため、やむを得ず、片手でパソコンのキーを叩く時でも左手自体は休めず、やはりボールを握っていた。
  4. 風呂にゆっくり入って、肩を温めた上、両手をゆっくり頭上に上げて延ばし、痛みを感じないぎりぎりのところまでストレッチする。ストレッチは最低20秒以上しないと効果がない。私も最初やってしまったが、反動をつけて腕を動かすことは危険なだけで効果はない。
  5. 鏡を見ながら、左背中の肩甲骨が浮いてしまっている(左腕がやや曲がったまま固まりかける、いわゆる痙性があるため、左肩の端が恒常的に前に惹かれたような状態になって、逆に背中に肩甲骨が引かれて浮き出てしまっている)のを矯正する姿勢をとる。これはパソコンを使う時にも、常に注意する。
  6. また、痛んでいる肩の調子を見ながらだが、パソコンを出来るだけ両手うちすることも努力していた。肩の調子ということは、パソコンのキーを打つ姿勢が、どうしても肩に負担を与えるからである。

  このような「努力」の結果、私は、短い距離なら、見た目ではほとんど普通に歩けるようになった。そうなったのは3月半ばからのことである。いつのまにか寒風から、春の風を感じられるようになっているころであった。

  それでも、私は常にステッキを持って歩行していた。これは、身障者になっている私への注意を周囲に促すためだ。特に、中高生のようなヤングは他人に対する想像力がないから平気でヒトにぶつかってきて怖いのである。もっとも、体に何の不自由もない若い人が、不自由を持つ老人などに対する想像力がないのは、いつの時代でもそうなのだ(私でもそうだった)。が、現代の日本人の若者は特にその傾向が強いような気がする。いつの時代でも、どこの国でも同じということではないのではないか。とても残念である。構造的に甘やかされて育ったため、人の痛みに特に無理解なのではないか。

  これ以外に、言葉はできるだけヒトと会話することをリハビリにしていた。舌のマッサージ、大声で歌を歌う訓練は都会の真ん中の狭い家に住んでいては出来ない相談だ。この点は、伊豆病院にいたときのほうが良かったわけだ。こういうことは、温泉保養地でゆっくり療養していれば、もっと効率的に出来ただろうが、それはやむをえないことだった。

  こうして、肩の調子もある程度、状態の上で行きつ戻りつしながらだが改善し、4月に入ると、私は、そこそこ、見た目には回復してきているようになってきた。歩行に際して弱いほうの左足を前に蹴りだす時、膝下の押さえが利かずにぴょこっと振り出すような感じになるのもなくなったし、かかとからぐっと押さえ込むように着地することも出来るようになった。したがって短時間なら、かなり早くぐんぐんと歩けるようにもなった。

  一方、食べる時、よほど注意しないと口の左側から食物がこぼれかねないという問題点は残っていたが、これも少しずつは改善しつつあった。

 4月の第1週には、東京の桜もなんとなくほころび始めた。プロ野球も始まって、そうするとやはり心が少しは明るくなる。よーし、第2週には国会に復帰しようと思うことになった。そしてそうしたら、土日には何とか1日割いて、NTT東日本伊豆病院入り口の見事に咲くという桜を見に行こうではないか、伊豆でお世話になった人たちにちょっとはご報告もご挨拶もしようではないかと思うようになった。新顔の野良猫にも餌を持っていってやらねばいけない・・・しかし、それは後述の理由で出来なかった。。

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飛び込んできた小渕倒るの報‥逆に私は国会へ

    このころである。小渕恵三総理大臣(当時)が倒れたという報が飛び込んできたのは。

  4月2日の晩、疲れて早く寝た私は、3日の朝、7時前に妻に起こされた。

「小渕さんが倒れたらしいわよ」妻は教えてくれた。
「えっ?何の病気でだ?」
「分からない。それは何も言っていなかったわ」
「ニュースでは病名は言わなかったのか。で、いつ?」
「倒れたのは昨日の晩だとか、今日の早朝だとか言ってたわ。」

 右脳が梗塞に襲われて、このところ、私はカンというものが働きが鈍くなっているのを感じていた。その代わり、論理性とか論理的推理とかが非常にスムーズに働くようになっているのも感じていた。右脳の情動性が左脳の知性の働きを邪魔しない。つまり≪バランスをとろうとしない?≫からだ。こういうことの結果であるが、本当の話し、私は、瞬時に次のような論理によって、小渕は脳梗塞なのだという結論を出した。妻に起こされて、ベッドから起き上がっているうちにである。

  1. 小渕は心臓の持病を持っていた。心臓で倒れたのなら、死ぬような重篤なものでなければ、意識や言葉はある。だから、倒れたこと自体を隠すなら別だが、病名は隠す必要はない。小渕が心臓病なのはみな知っていることだ。小沢一郎の心臓病と同じく、隠したくっても、「症状以外は隠しようがない」はずなのだ。そして、小渕や小沢が何度も心臓で倒れても、死なない限り政治生命には別状がない。
  2. ところが、それを隠しているなら、心臓起源(おそらく)の脳梗塞しかなかろう。そして、それだと、心臓から脳へ「塞栓が飛ぶ」から、危険な塞栓溶解をすることになるのではなかったか。そしてそれは、きわめて危険が伴うことが知られている。記者会見がもし遅れているなら、発表の調整を必要としているのだ。すると、調整が必要なら理の当然として塞栓の溶解失敗、溶かしすぎの出血-意識不明が起きていて、近いうちに隠しようがなくなる状態ではなかろうか。

 と、ここまで考えたのである。嘘のようだろうが、まったく本当だ。私は、脳梗塞については医者と違って生命をかけて(ちょっとオーバーだが)研究を始めていたから、部分的に深い知識があったのである。

 私の理論だと、医者は専門家でも仕事や報酬やプライドの問題として脳梗塞の問題をとらえているが、私たちは患者なので命や家族の将来にかかわる死活問題として脳梗塞を考えている。つまり、こちらのほうが真剣なのだ、というものである。

 たまたま私の場合は、医学論文を読む能力だってある。しかもそれについて損得をまったく離れて、素直に読むことが出来る。医者も学者も、普通、これが難しい。たとえば、「栗本慎一郎が言っていることが正しいということになると、俺のこれまでのあの仕事の評価が下がるから困る。だから反対する」とかの事が起きる。栗本式鏡箱について一目で「これは脳には関係がない」と倣岸な断定を下した医者もいた。それが脳梗塞で片麻痺を起こした人たちの連絡ネットワークの古くからの関係医師だというので私をあきれさせたことがある。それは、単に自分に都合が悪いというだけのことなのだ。こういう一部の医師の無知、不勉強、患者に対する高圧的態度は、診療の進歩や科学に対する敵である。ま、どこの世界にでもあることなのだが…。

  患者の私たちには、まったくこういうかげりを生む心がない。正しければただちにこれを信じることにためらわず、間違いを見つければ改めるのにもためらわない。正しいと思うものも、常にその検証をいとわない。教わることをも恥とは思わない。われわれは、ただ真実であるもの、有効であるものが欲しいのであって、別にそこに名誉や地位やましてや金銭は、関係ないからである。これはいわば、高級なアマチュアは倫理においてプロに勝るということである。

  ところで、小渕問題である。私は、妻に起こされて、ニュース各種をチェックして、2〜3取材の電話をかけて、すぐに自分のこのWebサイトに「小渕、脳梗塞」を断定的にアップした。確信を得ていたからためらわなかった。この間、朝の食事もとったが、それも含めて妻に起こされてからわずか1時間のうちの作業だった。まだ朝の8時台だった。一般メディアはまだどこも病名を報じていない時だった。

  結果的にこれが、私のWebサイトに対する小渕問題についての信頼度をアップさせ、おそらくはプロのジャーナリストたちによるアクセスの飛躍的増加をもたらすことになった。小渕報道が始まった4月3日から17日までの2週間で、ホームページアクセス数が23,174である。一日平均1655アクセス、11月29日にスタートしてからそこまでの58,765アクセス(一日平均480)の総数の4割も増えたである…アクセス度は250パーセント増。これは政治家としては勿論のこと、個人のWebサイトとしては、特別の数だ。いわば、一定のメディア性を獲得したのだろう。

  そこからは、このWebページを読んで新たに情報を入れてくれる記者、確認をしに来て交換に新情報を置いていってくれる記者、同様の事をする政治家といった具合に、私のパソコン机は情報の受信発信基地となった観を呈することとなったのだった。

  なかなか面白い情報としては、前内閣のある有名閣僚が私のWebサイトに乗っている情報を自分の派閥の長にいろいろと説明し、それをその大物政治家が熱心に聞いていたというものもあった。ウソかホントか野田聖子前郵政相が、「栗本先生のホームページ、刺激があって、読んでます」と、エレベーターの中で私に対してのたまわった。聖子ちゃんは独身だから、ちょっと刺激が強すぎるのではないかな。でも、刺激が欲しいのかな。

  そんなこんなで、それでなくても短い桜の季節はあっというまもなく飛び去ってしまった。伊豆病院の桜見物もまた夢と消えた。桜の花見は、リハビリ用散歩コースにある小さな公園の一本の桜が満開になったのを、その下のベンチに座って見上げただけだった。寂しいと言えば寂しい花見だったが、心の中は完全復帰を狙っていて少しも寂しくはなかった。

  私は、この間、4月11日に国会に復帰した。復帰の場合、知らせてくれと言われていたマスコミと、12月に報道してくれたマスコミには「感謝の念」をもって知らせることとした。なぜなら、12月の各社の報道は、いずれも「頑張ってくれ」とのメッセージだと私はとっていたからだ。こちらの気持ちが素直になっていたかもしれないが、「半身麻痺か」の週刊誌報道も、激励に思えたのが事実だった。かくしてフジテレビとテレビ朝日が復帰を報道してくれた。テレビ朝日などは照れくさいが、半年振りの復帰で、家を出るとき妻に記念写真を撮ってもらうところまで写された。左手が使えないので、ミニノートパソコンを入れたかばんを右側半身にたすきにかけた姿だった。自分で考えてもまるで、ランドセルを背負って家の前で記念写真を撮る小学一年生という図だったが、照れくさくはあっても、べつに恥ずかしくはなかった。

  だって、復帰はやはり心からうれしかったし、また、それでもまだどこかに大丈部かなの不安が残ってはいたから、妻の希望どおり写真くらい撮っておこうと思ったのだ。私の政敵や、思想界での論敵は、きっと格好をつけなすぎるという批判をするのだろうが、そんなことはもう気にならなかった。小学生が入学式に出かける家の前で写真をとルのは当然ではないかという感じだった。「死線を越えた」とまで言えても言えなくても、自分としては少なくとも死を強く意識せざるを得なかったところから「戻ってきた」のだ。戻っていく国会がくだらなかろうとどうだろうと、それもどうでも良い。国会に出席することは、この世の入学式のような気がしたのだった。インテリだから、照れるべきだといわれれば、次のように言おう。、この恥と虚偽多き現世の春に再び身をおいて、それを嘆くことの出来る幸せを感じていたのである。思索の中から現われ出る「生」ではなく、なまの生がそこにあった。これが哲学の言う「現前」というものだ。

  これに先立ってスポーツ報知が、この4月から始めた新企画のインタビューコーナー「HUMAN-X」の1回目で私を取り上げた。私はそこで脳梗塞の病と自分とを語った。3月末の取材であって、掲載は本来の予定だと連休前とのことだったが、小渕脳梗塞に倒れるの報によって、一挙に繰り上がって掲載されたのである。小渕が倒れた2日後の4月4日の新聞であった。そこには、この闘病記で書いている脳の中から聞こえてきていた音のことが大きく取り上げられていた。なんと、記事の見出しにも「しゃっしゃっしゃ」と,擬音が大きく打ち出されていた。あの音は、私にとって大きな一つの衝撃だったが、他人が聞いてもやはり何かを感じるものらしい。

  テレビ朝日レポーターの所太郎さんにもそのことを聞かれたし、ラジオの梶原しげるさんにも聞かれた。やはりこの脳の中で鳴った音のことがみなさんも気になるらしかった。それと、その音を聞きながら、何もアクションをとらずに眠り込んでしまった私の態度のことも皆さん、気になるらしかった。気になるというか、不思議でならないということらしかった。これに対しては、私は常に素直に答えていたが、それはこのWebページに記述したとおりである。音の原因は今でも、決定的な分析はされていない。

 それならやはり、血流障害の何らかの結果であろうという推測がもっとも有力らしい。ということなら、その音を聞いた当初の私の判断が正しいことになる。だから、私がひょっとしたらもう人生における最後の夜かもしれないと思っていたことも正しかったのかもしれない。そしてそれなら私はその重大性に気づいていたのに、妻にも直接は言葉を交わさず、胸の中でだけ迷惑をかけ続けだった結婚生活への謝辞と詫びを述べて死を覚悟した眠りについたことになる。生きて帰ってきたから言えることだが、なんと無責任なやつなのだろうか、私は。

  こうして私は、この世にもう一度、生を与えられた。ちょうどそのころ、私が批判し続けていた一人の政治家がまったく同じ病気で意識を失い死に至ろうとしている。その対照には、なんとも無量の感慨が沸かざるを得ない。その男、小渕は哀れである。

 マスコミや青木官房長官を通じて小渕と小渕家に贈った私のお見舞いと激励の言葉は真意である。「希望を捨てないで下さい。家族で両手を握って、出来たら双方を同じように刺激し、声をかけてやってください」と伝えたのは本気である。一部報道によると,小渕氏次女の優子さんが、前総理の手を握って「お父さん」と声をかけたら、昏睡の中にも反応があったと伝えられる。ひょっとして伝言が届いたのだろうか。私にとって、小渕恵三氏は回復の恩人でもあるから絶対に生き返って欲しいのだ。なぜなら、私は完全に半身不随だった時期、左足のリハビリをベッド上でやっていたと書いた。電動ベッドの上半身部分を斜めに立てて、ずり落ちる体を左足で支えて、体軸を微妙にずらしたりねじったりして筋肉の蘇生を図っていたのだが、その意欲付けに足の下においてあったものがあった。目標の見えない屈しがちになるリハビリに「この野郎」という根性を植え付けて、続行させる意欲を作るものであった。

オブチセイケンと書いたリハビリ道具 それは、東京医科歯科大が得意とする分野の腎臓をかたどった(本来は手の)リハビリ用具であって、それを私は左足で踏んづけてリハビリをさせてもらっていたのである。そこには、なんと「オブチ」セイケンと書いてあった。言うまでもなく、踏んづける意欲を増すためである。 それを見て、医師や看護婦はみな笑っていた。いや申し訳ない。オブチとだけ書いたのではなかったが、私はオブチ一統を踏みつけることによって、くじけがちな病床の精神を支えてきたのであった。かく、オブチ政権打倒に働くベく復帰することを目標にして私は生き返ってきたと言える。逆に言えば、オブチセイケンは私に復活の勇気を与えてくれた恩人であった。

決算行政委員会で河野洋平外務大臣に質問する 私は、4月20日、決算行政監視委員会で外務大臣河野洋平に質問をする機会を得た。中味は、湾岸戦争以来、続くイラクへの国連制裁解除の世論が英米にさえ、澎湃として沸いていることを知っているか。イラクがなおも核を持つという疑惑が真っ黒だと言う人がいるが、欧米では、ニホンの中近東政策は細かいところまで亜米利加の支配下にあるという「疑惑」はもはや、疑惑なんていうレベルではなく広く信じられているではないか、と指摘した。医薬品まで輸出禁止にした国連制裁は、もろもろの国連制裁の中でも期間、内容ともに過酷に過ぎるもので、イラク政府というより、イラク国民にひどい犠牲を生じている。現地駐在の国連高官が2人も、これに抗議して辞任している事実さえある。そして亜米利加で下院議員70人が、超党派で「人道的立場」から国連制裁を解除することを要求署名した。日本でも、私と保坂展人議員が(またも、この2人)署名を集めているのだ。この点でも、私は復帰している。このことについて外相に質問し、私はさらに、バグダッドに日本大使館員を復帰させることを要求した。イラク側は日本に大使館を維持しているのだ。これでは、話し合う必要がでた時、テーブルすら用意できないではないか。(写真は決算行政監視委員会で質問する私と,答える河野外相 4・20)

 30分間、言葉は時にやや発音不明瞭になったが、速記者も記録にまったく問題ないようだった。質疑内容も決して形式的なものではなく、オーバーに言えば、アジアで最初のこうした議論だったかと思う。はっきり言って、多分、外相は事実を役人から知らされておらず、私の言うことを一生懸命聞いている風だった。体力以外は完全復帰である。私は、外相に厳しいことを言ったが、終わって、彼と握手した。二人とも、嫌味な内心の思惑は持たなかったと思う。

  今やオブチセイケンはモリセイケンに変わり、オブチ個人は死への道に入り込み、逆に私はかろうじての復活を遂げることとなった。私は、これから実際、何の仕事が出来るか、良く分からない。全幅の自信があるわけではない。しかし、少なくとも、仕事に向かって進んでいく事はできるようになった。目標をすこし(あるいはうんと)小さくすれば、半歩くらいは前へ進めるかもしれない。それでよいと思う。

思想家としての復帰はせず。

私のしてきた仕事の中に、いわゆる知識人なるものの戦後社会における行動や意味の問い直しというものがあった。それは、具体的な仕事と言うより問題提起である。それは、私がここで死んでしまっても、受け止められる人には十分、受け止められたはずだ。林達郎から始まって、今は少々形は変えたとしても、浅田彰や蓮實重彦らに受け継がれているポーズとしての高級知識人たちは、いったい、思想的にも現実的にも何が出来ていると言うのだろう。結局、「高級知識人という商売」ができているだけではないか──という批判をしてきたのです私は。多くの政治家になって以降の知り合いには、まったく知られていなかったことでしょうが。高々、難しそうなことを言ってみて、それが新「知識」だと思って、これで人に威張れるなと思うような低次元学生に新たなネタを提供する商売をしているだけではないか。

 一方の私は、ドロドロの政治の世界にまで飛び込んで、泥をかぶることも跳ね返すこともあった。だが、思索すべき高級な現実も、実は本来、そういうものなのである。それに対して、何も痛みも受けっこない場所(昔で言えば象牙の塔、今風に言えば国立学校特別会計にぬくぬくと守られた税金による知的怠惰の温床)から、格好つけただけの評論をしているとは、そのこと自身が知的に低劣な行為だと思わないとは理解できない。私は一時期、思想家の端くれに数えられていたが、政治の現実にまみれ始めてから、思想家の列から外されることが多い。日本では、行動においても格好つけていなければ思想家ではないというわけだが、そんな「看板」は自分からお断りしたい。

 思想家は人を殺そうと,女を愛そうと、選挙に出て当選しようと落選しようと思想があれば思想家である。私をかつては思想家として扱い、選挙やテレビに出たとたんにそこから外した人は、私が行なった近代社会批判や経済学批判を言説的に批判し去ってからそうして欲しい。出来ないだろう。私を批判するものは、いずれも私のスタイルが嫌いだと言っているのである。私のスタイルは、時々、私自身も嫌いになる。第一、損だ。でも私は、脳梗塞についての議論同様、正しいと思った議論は、即座に認める。取り入れる。反省もすることにする。でも、そういうものがないのである。ともかく、脳梗塞になってしまったから、ペースは落とそう。敵にもファンにも残念なことかもしれないが仕方ない…。

 その泥臭い現実にまた一部、まみれるようになるとは、まことにうれしいことである。俗に徹することこそ、真の超俗に繋がる行為だ。ここで恩人?オブチ個人へは決して勇気と希望を捨てるなと心から呼びかけるとともに、読者にも患者としての先輩後輩のすべてにも、いかなる場合にも勇気と希望を捨てないようにと呼びかける次第である。

 しかし、脳は完全復活しないーーだから本当は完全復活ではない

 こうして幸運にも奇跡的な復活を私は遂げることが出来た。その間、このWebページで発言できたことは、大きな支えになってくれた。Webマスターには、適当なる感謝の言葉もない。事務所の古川隆雄君、朝比奈正倫君、川島みちをさん、函南までやってきてくれた西垣内憲佑弁護士(は、東京医科歯科大にも何度も来てくれたのだが)、上杉清文上人、末井昭氏、三輪是法上人、鈴木祐弘上人、新田雅一氏、秋山徹マスター、スタイリスト佐瀬景子さん、光文社小野俊一氏、勿論、わが家族、が本当に支えになったのだ。こうして私は、復活した。

 しかしである。ここが癌患者と違うために、世界的に闘病記が少ない理由なのだが、癌と違って、脳卒中はたとえ取り合えずでも完治はまったくありえないのだ。そもそも脳の中の血管は明らかに死んで、その復活は永久にないのだ。死んだ部分は、白血球の働きによって侵食され始め、やがてはぽっかりと空洞化する。それは、今私の脳の中でも起きていることなのだ。完全復帰とか言っても、そのプロセスはドンドン進行して止めようがない。そして、脳の真ん中の空洞は、やがて、周りから押しつぶされるように押されて、脳全体が結果として収縮する。そういう恐ろしい?プロセスをまだ私は、見つめねばならないだろう。よって、癌のように『切り取りました、成功しました、生還です』とは言えないのが脳卒中である。世に脳卒中の闘病記なり報告が圧倒的に少数なのは、こういう理由であるし、また、麻痺や失語症がある場合もあるからである。

 私は、その中で、多少は脳についての知識がある者として、ここまで、たぶん、非常に珍しい脳卒中(私は脳梗塞)の報告を書いてきた。だがその私も、これを出版したいといってきた光文社の小野氏に、最初は強くノーと言ったものである。大脳をやられて、誰でも不安だし、今ここに書いたように「完全回復」があり得ないことを知っていたからである。だが結局、毎年死んでいく14万人の人の代わりに、また全国173万人の患者の代弁の一端をになおうと私は思った。脳梗塞の患者たちは、普通、『言葉なき死』に至るからである。小渕氏もそうだ。そして、実はかく言う私さえも、あの脳の中のマラカスが鳴り止まねば、まったく誰にも何も告げることも出来ずに死んでいったはずだった。あのラマチャンドラン教授でさえ、私がこういうものを書いていると私から聞いた時、「珍しい。是非読みたい」と言ってくれた。私としても、脳がまだ少しは機能しているうちに、という気持ちがあったとしてもおかしくはなかろう。その気持ちがいかに強いものか、先ずはだれも分かってくれまい。そのため、私の古い読者がいれば、ここで思い出して欲しい。わが妻芙美子は、かつて私がそれによって世に出た本「パンツをはいたサル」の裏表紙の著者紹介に使われた名言迷言?を吐いた。あれは、いったい、なんだったのだろうと、今、思っている。

 「あの人(夫、栗本慎一郎)は、もともと脳とは関係ないのです」

 ところが大有りだったのだ。

(終わり)

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1リハビリテーションにおける心の役割

2心と身体

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