ホモ・エコノミー


栗本が語る経済オピニオン

自立を放棄し、米国の支配勢力に追随する道を選んだ小渕内閣を断罪す
保守政治と官僚の失政から生まれた小渕内閣 
  高度成長期からバブル期を経て、その崩壊期までに日本政治は、ひと言でいえば規制のたがを強めたり緩めたりする一種の社会主義のなかにあった。官僚は規制を好み、保守政治はそれと癒着していた。およそ経済の活力というものは、押さえても押さえても噴き出てくるものだったから、それでもなんとか格好がついていたのだ。

 けれども、バブルを無理やりに破壊した後は違った。規制緩和に遅れをとって民間の活力を殺ぎ、さらに情報通信の発展にも遅れをとりかけた日本は、G5のなかでもとくに経済的に不調の国となってしまう。

 おりしも、株式市場を舞台に巨大な利ざやを稼ぐことに狂奔する国際金融資本が世界的な金余り現象のなかで投機を繰り返すようになるロシアが、またアジア諸国が、その餌食となって背中を押されるように大不況に突っ込んでいった。それ以外にも、旧東欧諸国ほか、短期資金の出し入れを操縦されて危険に陥った国は多数にのぼる。

 もしここで、国内経済が不調の日本までガタガタにされるようでは、「日本発の世界恐慌」がおきるという強迫観念があちこちにひろがった。「日本が負け組に入ってもいいのか」という言説もまた、脅迫であるが、これも蔓延した。

 一方で、日本経済と保守政治、それに癒着しようとする官僚機構が最後の支配への執着を見せていたのが、このころ、すなわち村山内閣から第二次橋本内閣の後半まで(1994年7月から97年12月)である。

病床の竹下が指揮するブッチ内閣
病床の竹下が指揮するブッチ内閣その頃、自民党と官僚がしようとしていたことはこうだ。基本として竹下登の指示である。すなわち、
(1)世界が要求する規制緩和を実行しないわけではないが、官僚主導のもとで超ゆっくりとやる。大蔵省を中心とした官僚のおいしい主導権は、絶対、確保する。
(2)財政再建を優先させ、しかる後に他のG5とゆっくり渡り合う。
つまり、世界経済との関係においては、アジア通貨基金構想や円の国際化を軸に自主性を確立し、しかる後に議論していくという順番で行う、というものだ。

   しかし、そのシナリオも狂ってしまった。これは、金融機関の不良債権の処理が、適当にごまかしながらでもできるはずだという大いなる「見こみ違い」に基づいていたからだ。

 そこで先行き不安を解消できず、金を持っていながら使わないという典型的なデフレ気分に陥った日本国民は、参議院選で自民党政府にNOを言い、小渕内閣が誕生する。

小渕内閣を倒す絶好の機会を逸した菅直人
このとき小渕内閣は、大蔵省OBを蔵相と党の政調会長に起用、これまた大蔵言いなりの金融政策(長銀を救えば金融システム救えるといっていた小渕恵三、宮澤喜一、池田行彦はいまや犯罪者なのではないか?)を、臨時国会に提出した。いわゆる金融再生国会(98年秋)である。ここで小渕らは、自民党内から反乱の芽が出たこともあって・・本サイト冒頭の『自民党分裂の大予測』参照・・、民主党の主張に屈し、政策的には敗れ去る。そして長銀はつぶれるが、なんのこともない日本の金融システムに大きな変化はなかった。

 大蔵省の「嘘」は、政治的な意味としてはここできわまった。つまり、自民党や内閣を危機に陥れてまで押し出した政策が、かくも国内および世界から不評なのはいったいどういうことなのかということだったのである

 あの金融再生国会で、民主党の菅直人が衆議院の解散をかけて小渕 の「失政」を政局にしていたら、間違いなく小渕内閣は倒壊した。そしてそこで自民党は分裂した。もしあったなら参議院選の敗北後の総選挙である。小渕の失政を強く責めていた小沢自由党も野党として戦ったはずだし、そうなれば菅総理が誕生していただろう。

 ところが菅は、国民に人気の野党党首という楽な位置にしがみついた。小沢は怒る。だからじつは菅こそが、小渕を倒閣から救った救世主だったといってよいのである。
政局は「大蔵主導」から「アメリカ主導」へ
   この様子を逐一見ていたアメリカは、心からあきれた。もともとアメリカは、日本経済と日本政治に強い関心と利害を持っている。クリントン政権が発足したとき、およそすべての言論が、クリントンは日本叩きによって自らの窮状を脱しようとする、と論じていた。

しかし、これは二つの理由によって、実行が延期されていた。

ひとつは、クリントン政権自体が国内政治では共和党に押されて、減税、小さい政府の方向、自由貿易路線、兵器輸出の拡大という自由主義路線(これをクリントノミクスの転換という)に妥協するのが忙しかったからで、さらにはその結果、皮肉にもアメリカ経済は好況に転じてしまい、日本叩きなどとりあえず不要となってしまったのだ。これが二つめの理由だ。

   だが、この小渕と日本官僚の情勢判断の甘さに、危機感を抱いたアメリカはついに踏み込んだ。日本経済がこれ以上つぶれてはアメリカ経済にも影響を与える。それでは困るし、1999年(平成11年)の春にはガイドラインの更新が予定されていたからだ。まったく、この調子では困るではないか――クリントンから副大統領のゴアにバトンタッチできないかもしれない。

   そこで、アメリカは考えた。

   まず、もともとアメリカとは関係の強かった自由党と小渕を結合させる。自自連立である。そして、その後自自公にまで持っていって、政権の安定をはかり、しかるのちにグローバルスタンダードという看板のもと、自分たちの…いや、じつは国際金融資本の要求を呑ませていくというものだ。つまり、いままでの大蔵省の自民党支配ではなく、今度は本当にアメリカの自民党支配が始まったのだ。

   金融再生国会後の小渕とそのまわりの危機感の持ちようは大変だった。もちろん、危機感は自分たちの権力についてであって、日本のあり方ではないのだが……。

 以降、経済政策はむしろ官僚の面子をつぶしてもよいというかたちで進行し始める。官庁でいえば、大蔵より通産が前に出るかたちとなり、過去の企業犯罪、とりわけ金融については、多少とも暴こうという方向が生まれる。

   こうして大蔵主導の財政再建路線は後退し、景気刺激策ばかりが前面に押し出され、アメリカとの関係を好感した株式市場には、そのアメリカ本籍の資金(ことに投機筋)が流入し、株価がやや回復する。

保守の伝統「日本の自立」志向を捨てた小渕
 アメリカの日本支配といっても、昔からではないか、と言う人がいる。ところがそうではない。
 これまでの日本の保守政治は、吉田茂以来の伝統で、通常時はそれなりに日本の自立を求めようとしていた。つねづねアメリカはそこにいらいらしてきたのだった。もちろん、重大事においては、最後はつねにアメリカの意見が通るのは当然である。しかしこの間、アメリカが要求してきた規制緩和にしても国内基盤の整備にしても、実行に移しはしたが、かならずしもアメリカペースではなかった。

 それが、今度は一転したのだ。もはや頼るものがなくなった小渕は、いっきにアメリカを盟主とすることにした。これまでの、「最後はアメリカが偉い」という保守の伝統をとびこえて、路線としてアメリカの極東の、一州たることを選択した。すなわち、ロコツに『最初からアメリカが偉い』と言うことになったのだ。いや、選択せざるを得なかったのだ。紙幅がないが、証拠なら山ほどある。

 それからの小渕内閣は、いわゆるグローバルスタンダードへの追従・屈服を一気呵成に急ぐことになる。通信傍受法もそうだし、一見、逆コースに思える国旗国家法案も、「そんなものは、当然、通せ」ということなのだ。問題自体が「過去の遺産」なのだから。

 今後、日本政治の主流から出されるだろう経済政策は、「それでは日本はどうなる?」という問いを無意味にしていくものばかりとなるだろう。そして、じつは恒常的盟主となったというアメリカ自体も、もはや、国民経済を持つアメリカ国家ではない。むしろ、いまのアメリカとは国際金融資本そのものであるし、しかもそれを政治的に仕切る者たちは、必ずしも表に出る人物ではない。

 では、それは誰々なのか。いま私がいっておくことができるのは、次のことだけだ。それは、93年1月に成立したクリントン政権というのは、初期に劣勢を伝えられた民主党の候補クリントンにアメリカ南部の星、ゴアを結合させたところから生まれたといっていい。この、もともとつながらなかった二人をつないだある一定の勢力こそ、実はアメリカの真のパワーなのである。

 日本政治はいま、そこを向いているのだ。いや、向かされているのだ

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