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「自由民主革命」遠のく
 ─焦点は次期総選挙だ

栗本オピニオンレーダー・エッセイ
2001/03/05

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価はバブル以降最低になり、ITが経済を引っ張るどころかその足を引っ張りかねないことが明らかになり、アメリカは「古き良き」孤立主義に戻ろうということを選択し、アメリカべったりの日本は再び(恫喝による)指導方針を失ってオロオロせねばならないことになった。そこにたまたま起きたのが練習船えひめ丸事件とKSD事件だった。えひめ丸事件は偶然、KSD事件はいつもの構造だが表に出てきたのはこれまた偶然だ。そこで森がゴルフをやっていたのは偶然だが、事件の意味を理解しない無能力は偶然ではなかった。そういう無能力を見込んで首相にしたのが、現在の自民と公明の首脳なのだから、彼等に森を批判する資格などもともとないのだ。

だが、だからこそ首相の代わりなどいくらでもいる。確かに、扱い方にはコツがいるが、結局は自民党そのものである小泉純一郎だって参議院選挙用の飾りになら看板要員として動員可能だ。田中真紀子は、骨の質が違うが、これだって自民党の風除けにする気になるかもしれない――田中は、やはりまだ「危険」だとしてお声がかからないだろう。自民党の本質を変えずに、一時の風除けならば、野中の秘蔵っ子野田聖子だってありうるというのが私の見方なのだ。扇千景などもっとありうる。しかし、自民党の参院選に向けての不安感は、もうその程度のムード変革ではやっていけないというところにまで深まった。よって準備を整えて野中の登場もありうる、と言うより現在、大本命だろう。でも、選挙が?という声が懸念として出るのは仕方ない。彼は、おじいさんだし、闇将軍だし、マスコミ懐柔は得意だが、選挙にはこれまでも弱かったのである。

そういうわけで、本人の歴史的評価をがた落ちにさせるだろうが、小泉登板もここはありうる。選挙用の負け役である。それがいやで、加藤紘一が「先読み」して決起しかけたことを思い出すが良い。仕掛けも演出も観客動員もすべて橋本派と創価学会だ。それは確かに、総理になれば個人の目から見れば大きなこと、たとえば日露交渉等々、は左右できる。時々見えも切れる。しかし、財政路線の変更をはじめとした国の根本に関わる路線はすでに決められているのである。そこで総理を受ければ、ようするに総理に「なりたかっただけ」との烙印を捺されるだろう。最も、小泉は、私は良く見てきたが、世間が期待するほどの中身を持っているわけではない。人気はただのムードである。総理をやれば、それが皆に見えるだけだからやめたほうがいい。

そこで、昨年11月の「加藤紘一の乱」だ。

あれはたしかに京大河上教授も言うとおり、自由民主革命の火の手であった。自民分裂解体は、時代の流れである。次期総選挙には、いまの形の日本社会そのものたる自民党は存在していないだろう。少なくともその直前にいまの橋本派と、それに対抗する勢力に分裂するに違いない。ただし政治に基本的影響力を持つためには、そこにいまの民主党の分裂も伴う必要がある。むしろ、こちらのほうが「超焦点」になると考えておいたほうが良い。

だが、「加藤の乱」があれだけ問題になったのは、それが自民党にとって意外だったこと、突然で虚をつかれたことがあったことを忘れてはならない。いくら昔学生運動をやっていようと、今は自民党の幹事長の経験者でもある。そんなことをやるわけがない、というのが全体の読みだったから、途中まで加藤の乱は成功しかけたのであった。自民党という日本社会そのものの共同体にとって、路線や体質の問題で加藤があれほど思いつめて行動に出るとは、誰も理解できていなかったのだった。

あのとき、自民首脳どもは本当にあわてふためいいていた。しかし、一度不発弾を出しては、もう終わりだ。また、あのときでも、自民首脳側に対応時間を与えすぎた。今加藤についている10数人もまた、本気で次回の加藤の行動(それがあればだが)についていくものはいない。皆無かもしれない。加藤派に残ったのは、加藤の路線とは別に「義理と人情」から言って、ここで加藤親分から去れないということだけだからだ。そして、その有力な多くは、今度の行動が昨年のような唐突なものにならないよう注意する役回りを持っている。きつく言えば、自民主流派からの回し者だ。

よって、白川勝彦は独立し、自民党を離党した。この行動は、もう少し力をつければ、石原新党より大きな意味を日本政治にもたらし得る。なぜなら、石原新党にはすでに、自民再生の鍵としての影の役割が期待され始めているからだ。旧竹下派の手法として、自派以外の政治家とマスコミに保険をかけるというものがある。旧加藤派のなかで保険がかかっていたのは現自民幹事長の古賀誠だった。これはもう以前から露骨なものだった。

そう露骨ではないが、次が石原新党である。自民は、石原には保険をかけるが、白川は無理だ。大体、石原は、格好良く議員を辞めたが自民党員は辞めていなかったことをほとんどの人が知るまい。だから、都知事には、自民党員のまま当選したはずだ。あるいは直前に党員を辞めていても、自民党から見れば何も問題はない。知事選に出る党員は,ほとんどの場合,形式上の無所属になるために自民党を離党するからだ。その点、白川は違う。はっきり路線と体質を批判して去った。ここは無視できない大きな違いだ。そこでここはかなりの影の確執が生まれる部分となる。

やがていつかこの確執の意味が問われる日が来るだろうが、今のところあまりそれは見えないし、見えても石原断然有利である。なんと言っても都知事は権力だ。そして、自民を批判してもよいという特権を持っている。そして、非創価学会の宗教団体の支持という特権もだ。だから、いまの自公政権の形のまま、石原が隠しダマとして登場することはありえないが、実は石原登板もありうるのである。そこでは、かつて亀井静香が問題になったように、反創価学会から親創価学会へ変わることが問われるし、そこをどう乗り切るかということが焦点になる「だけ」だろう。

参議院選挙の自民敗北は決まりだ。しかし、どこまで負けるかだ。普通なら、公明党の発言力が高まるかたちでだけ負けるわけだ。それが、公明党を加えてもまったく過半数にならないくらい負ければ、多少の変革の機運がたかまるというものだが、どうなるだろうか。多分、そうは行かないだろう。

だから、自民党の危機感も実はその程度。ちょうど、森にだけ批判が集中してくれれば良いという程度のところなのだ。

一方、経済のほうはもっと深刻だ。IT、ITと掛け声は立派だったが、要するにITで物は売れない。テレビのCMでは、どこかの酒屋(小売店)が、パリとインターネットで取引してるとのストーリーを作っていたが、売れたのはそういう「気分」だけ。その気分をバックに株を上場したやつはもうけた。ソフトバンクとかもそういう気分で株商売をやったものと思えば良い。それだけだ。だから儲けたのはそういう企業の創業者と、上場を世話した旧来の金融機関だった。そのバックは結局、大蔵省だ。じゃあ、要するに、一部個人と、旧勢力ではないか。

そうだ。そういうことだったのだ。私は前からそう言って来たではないか。
いま、経済に本当に必要なのは、物をどう売るかという基本の作業なのであることを忘れてはいけない。

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